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ふと「健全なる魂は健全なる肉体に宿る」という言葉が立ちはだかりました。
きっかけはいくつかあります。
それらのことについてはまた考えたいと思います。
それらのことについてはまた考えたいと思います。
昔の僕は、
つまり昔っていうのは、
自分は健康であり、病気とは無縁の人生を送ることができると信じていたころ、
努力は必ず報われるものであると信じていたころ、
この社会は正しき者、努力するもの、倫理的な価値を追求するものには必ず報いるものだと信じていたころ、
努力は必ず報われるものであると信じていたころ、
この社会は正しき者、努力するもの、倫理的な価値を追求するものには必ず報いるものだと信じていたころ、
要は、性善説、努力至上主義、そしてその本質はやばい現実からは目を背けるべしという事なかれ主義という、
大人たちの、特に体育教師をはじめとする、単細胞的な大人たちの教育的悪だくみを全く疑うことのなかった、
よく言えば無垢な心をもっていたころ、
はっきり言えば、まだまだ現実に目を向けるだけの知力を見につける以前は、
大人たちの、特に体育教師をはじめとする、単細胞的な大人たちの教育的悪だくみを全く疑うことのなかった、
よく言えば無垢な心をもっていたころ、
はっきり言えば、まだまだ現実に目を向けるだけの知力を見につける以前は、
僕も「健全な魂」は「健全な肉体」に宿るものだと信じていました。
いろいろ調べてみると、
この言葉の意味するところは誤解されて解釈されているそうです。
この言葉の意味するところは誤解されて解釈されているそうです。
本来は、健康であることを願う慎ましさを大事にせよ、という戒めだったそうですが、
いつの間にか、健全な肉体に精神的な価値を見出す、体育会系的単細胞解釈が加えられたそうです。
いつの間にか、健全な肉体に精神的な価値を見出す、体育会系的単細胞解釈が加えられたそうです。
しかしよく考えてみればこの言葉、
かなり抑圧的で、差別的ですよね。
かなり抑圧的で、差別的ですよね。
まず健全な魂とは何か。
単純に理解すれば、善という価値を大事にするような精神状態ということでしょうが、
そうすると、善とは何かという、これまた難しい問いに取り組む必要があります。
そうすると、善とは何かという、これまた難しい問いに取り組む必要があります。
ある人にとっては善であることが、別の人にとっては悪であることは、なんぼでもあります。
あるいは同じ人にとっても、ある時は善であったことが、別のステージでは悪として理解しなければならないこともあります。
したがって健全な魂の正体は、決して一様ではありません。
そして健全な肉体、これも正体は不明です。
例えば身体的な能力の高さを保持した肉体という意味で理解したとしても、
身体的な能力には、
瞬発力、持久力、柔軟性、耐久力等、いろいろ揚げることができますし、これらも必ずしも全部を満足できるものでもないでしょう。
身体的な能力には、
瞬発力、持久力、柔軟性、耐久力等、いろいろ揚げることができますし、これらも必ずしも全部を満足できるものでもないでしょう。
それから健全という言葉を健康という言葉に置き換えてみると、一掃この概念の危険性が浮き上がります。
つまり健康ではない肉体は価値の劣る肉体なのか、という疑念です。
そしてこの疑念は、先天的な障害とともに暮らす人びとに対して、根拠のない差別を生み出し、
ひいては優生理論という、人類の犯したもっとも罪深い概念を導き出してしまいます。
ひいては優生理論という、人類の犯したもっとも罪深い概念を導き出してしまいます。
僕たちアル症者たちは、健全な魂をもちえなかったがゆえに、健全な肉体を保持できなかったのでしょうか。
個人個人のレベルで考えれば、過度な飲酒者であった僕たちの行動のもととなった僕たちの弱さについては、反省すべきでしょう。
しかしだからといって、アル症者全員が、その精神の弱さゆえに非難されるべきものでしょうか。
アル症にはならなかった飲酒者は、押しなべて健全な魂の持ち主だったのでしょうか。
体育会的単細胞生物人間どもは、胸を張って、
「俺たちは節度をもってアルコールを楽しむことができているから、正しい精神の持ち主であり、アル症者は、弱く悪しき精神のゆえに忍耐に欠けていた愚か者たちである」
と言い切ることでしょう。
「俺たちは節度をもってアルコールを楽しむことができているから、正しい精神の持ち主であり、アル症者は、弱く悪しき精神のゆえに忍耐に欠けていた愚か者たちである」
と言い切ることでしょう。
しかし彼らは彼ら自身の悲しむべき不明に気が付いていないという意味で、犯罪的な精神の持ち主です。
僕たちは僕たちの思いを振り返り、そして今を生き抜こうとしています。
僕たちは決して社会の中で隠れるようにして、縮こまって生きている必要はないでしょう。
僕たちは決して社会の中で隠れるようにして、縮こまって生きている必要はないでしょう。
僕たちは病を経験しました。
そしてその病とは一生、付き合います。
その覚悟を常に突き付けられて生きていかざるを得ないのです。
そしてその病とは一生、付き合います。
その覚悟を常に突き付けられて生きていかざるを得ないのです。
僕たちは悲観する必要はないはずです。