僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

僕は、教育の手段としての野球に反対します。

飲酒歴40年、断酒歴3年と6か月、不良初期高齢者、リスボン、60歳。

本日もリスボンの、もしかすると言い過ぎになるかも・ノープランブログ、ご訪問ありがとうございます。


昨日、話題にしました、
サンデーモーニングのスポーツコーナーでの、
張さんによる、大船渡高校、佐々木君、決勝不登板批判の件、

多くの人が関心をもっているようです。


そして少し残念ですが、
多くの皆さんが、
張さんの旧態然とした、根性第一主義を批判しています。

僕も基本的には同じ考えであることは、
昨日も書きました。



今日は別の角度から野球というスポーツについてディスることにします。


1958年、昭和33年生まれの僕たちの世代の男子は、
ほぼ、100%近くが、少年時代に野球かソフトボールを経験しています。

僕たちの世代では、サッカーはまだまだ少数派でした。


個人的なことから書きますと、
僕は野球やソフトボールに関しては、
強烈なコンプレックスがあり、
また、僕のコンプレックスを逆なでする、非見識な体育教師の言動によって、
よくない感情をもっています。


何故かというと、僕は、
肩の使い方がおかしいのか、
肩の関節や筋肉に問題があるのか分かりませんが、

ボールを投げることができません。

投げることができないというと、少し大げさですが、
少なくともオーバースローで投げおろすこと、
ある程度、力を込めて投げ下ろすこと、
あるいは、距離を定め、狙いを定めて投げること、
これらの行為ができません。


したがって野球にしてもソフトボールにしても、
守備の中で僕が守ることのできるポジションは全くありません。


ボールを投げることがへたくそな僕に対して、
大人であれ、こどもであれ、ちゃんと教えてくれた人はいませんでした。


体育教師を含めたほとんどが、
僕の不細工な投げ方を見て、
指をさしてバカにし、あざ笑いました。

僕は小さいころから教室での勉強は得意でしたから、
その反動もあったんでしょう、
ボールを投げられない僕に対する、差別的攻撃は、
容赦のないものでした。

もう一度繰り返しますが、
僕に対して非人間的な罵倒を浴びせた先鋒は、
体育の教師たちでした。


これだけでもソフトや野球をディスるようになるおぜん立てとしては十分ですよね。


よくこの社会的ないじめに対して、死なずに堪えたものだと思います。


もっとも僕は僕で、
ADHD的な身勝手判断でこの危機を乗り越えてきたのかもしれません。



そして僕の個人的な経験にもつながりますが、
野球やソフトボールの犯罪的な非人間性は、

守備における各パートの信じがたい不平等性にあります。


つまり、どちらの競技も、
ピッチャーという特別なポジションについた選手が、
そのあまりにも特権的な感覚と、
そしてそのあまりにも理不尽な過負担を背負うことになります。


理不尽な過負担ということでいえば、
キャッチャーというポジションもたいがいですよね。

しかもキャッチャーの場合、
その苦労が表立って賞賛の対象になることは少ないようです。


それらに対して、いくつかの守備ポジションは、

少年野球の場合であれば、
運動神経の鈍い子がつくポジションとして定番化されていたりして、
教育的な観点からは、決して好ましくない負担を前提としているようです。


こんな理不尽なまでに不平等なスポーツを喜んで競技し観照している国は、
世界でもかなり少数ですよね。

まして、少年期の人間教育として積極的に取り入れているなんて、
もう、社会としての狂気の沙汰です。


この狂気の沙汰の象徴が、
夏の全国高校野球選手権大会(だったっけ?)、いわゆる夏の甲子園でしょう。


佐々木君の起用をめぐる張さんの発言が引き起こした炎上問題、

でも僕は、野球というスポーツには、
もっとやばい、非人間的ともいうべき、非倫理性が潜んでいると思います。


多分、僕の見方は、かなり少数派になるんでしょうね。

でも僕は、僕自身の屈辱的な体験も含めて、
教育的な観点から野球を取り上げることには、
断固反対します。


元気に世間にノーを言い続けるためにも、いつもの気合です。


皆さんも僕も、今日も明日も、厚かましくも謙虚にかつご機嫌さんで
LWoA Life Without Alcohol 断酒ライフ、継続していきましょう。