僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

非日常に意味を求める営為としての芸術

飲酒歴40年、断酒歴3年と6か月、不良初期高齢者、リスボン、60歳。

本日もリスボンの、今までとこれからの生き方を考える・ノープランブログ、ご訪問ありがとうございます。



何回か報告していると思いますが、
僕は筋金入りの朝日っ子です。

生まれた家で取っていた新聞が朝日で、
結婚して世帯をもち、新聞を購読する際にも、
特に深く考えず、
朝日新聞を購読しました。

そして現在も朝日新聞を取っています。


ここ4、5年で、
新聞各紙によって報道の姿勢が違うことが露骨に表れるようになってきました。

もちろんその中で朝日は、
反体制側に立脚点を置く、
人によっては極左と位置付ける事さえある、
左寄りの立場を取っています。


権力者の悪を暴こうとするあまり暴走することもあったようですし、
かなり左寄りの思想傾向をもつ僕でも、
ちょっとこの頃の朝日にはついていけない部分もあるなと思うこともあります。

でも今のところ、朝日っ子で居続けています。


今日の朝日新聞の論壇欄は、
中止に至ってしまった愛知トリエンナーレの。
「表現の不自由展」について特集していました。


僕はいまだにこの問題について、
僕自身の考えを整理できないでいます。


ただ今日の論者の一人、
首都大学東京宮台真司の論には、
興味を惹かれました。


宮台はこれまでの彼の仕事から言えば、
決して芸術論や美学を専門とはしていません。

しかしだからこそ、
関係者が陥りがちな議論のスパイラルにとらわれることなく、
問題の本質の一端について、
指摘していたように思います。


「表現の不自由展」中止についての宮台の論、全般については触れませんが、
彼が、近代から現代にかけての芸術の本質を、
「日常の価値の戻れないよう、心に傷をつける行為」として捉えている点は、
社会学者ならではの、卓見だと思いました。


僕たちの文化の中には、

芸術は優れた価値を追求するものであり、
その成果は素晴らしいものでなければならないとする、

奇妙な社会価値の役満縛りがあります。

したがって美術館は素晴らしい作品が展示されている場所であり、
クラシックのコンサートは素晴らしい音楽が演奏される機会である、
また何らかの賞を受賞した文芸作品には感動しなければならない、

芸術はジャンルの違いを超えて、
素晴らしい価値を押し頂くものであり、
鑑賞者ははは~っとひれ伏せなければならない、

僕たちはそんな風に教わってきたきらいがあります。


でもアヴァンギャルドは、そんな押し付け文化としての芸術を拒絶し、
既成の価値観を、破壊的かつ構成的に脱構築していくものです。

宮台の指摘はそんなアヴァンギャルド・アートのもっている社会的機能について、
端的にまとめてくれたものだと思います。


アーティストたるもの、
受けつがれてきた価値観や方法論の上に胡坐をかいていてはいけません。

常にクリエイティブでなければなりませんし、
創造的であるためには、
拒絶と破壊のスピリットが欠かせないのです。



僕自身の音楽活動について、考えてみました。


僕がライブで演奏する音楽は、
基本的には多くの人が知っている、
あるいは、聴いたことがあるというような曲を素材にしています。

そして必ず、
その当該の曲の最大公約数的な演奏において期待されているような部分については、
僕のミュージシャンとしてのひねりを加えます。

そのひねりは、
アレンジのこともあり、
歌い方のこともあり、
そして僕自身のアドリブ解釈のこともあります。

相方のT君も、
そんな僕の狙いについては共有してくれています。


ただこのところ僕の中に、
オーディエンスへの受け狙いに媚びてしまう部分も、
顔を出すこともあり、
ちょこっと反省することもあります。


でも僕は僕にしかできない音楽を演奏するためにミュージシャンであり続けようと思っています。


「表現の不自由展」については、
もう少し事態の進捗を待ち、僕自身の考えも整理したうえで、
報告させてください。


大分、めんどくさい話をしました。
予定ではあと60年間、演奏活動を続けるつもりですので、
常にガキみたいなマインドセットを保ち続けます。


そのためにもいつもの気合です。


皆さんも僕も、今日も明日も、厚かましくも謙虚にかつご機嫌さんで
LWoA Life Without Alcohol 断酒ライフ、継続していきましょう。