飲酒歴40年、断酒歴3年と10か月、不良初期高齢者、リスボン、61歳。
本日もリスボンの、とりとめのないノープランブログ、ご訪問ありがとうございます。
僕が所属している学会の一つに障害学会という会があります。
結成されてからまだ20年もたっていない若い学会です。
また大学をはじめとする公的な研究機関に所属している研究者や、
大学院生といった研究者の卵のみならず、
障害当事者や福祉関係者の会員も少なくなく、
いろいろな意味でユニークな学会です。
障害学会はもちろん学会ですので、
大会における壇上での口頭発表や大会会場でのポスター発表、
そして専門的な査読を閲した学会誌上での学術論文発表が主な発表形式です。
しかしそれ以外に、学会誌において、
学術論文とは別枠でエッセイという発表の枠が設けられています。
アルコール使用障害当事者としての立場から、
いつかこのエッセイに応募してみようと考えていますが、
そもそもアルコール使用障害が障害学の対象となり得るかどうか、
意外に難しいかもしれません。
そこで法律で使用が禁じられている薬物とアルコールの違いについて考えてみました。
例えば覚醒剤。
覚醒剤の危険性は言うまでもないのですが、
大きく、二つのポイントがあると思います。
一つ目、1回の使用でほぼ間違いなく依存状態が形成されてしまうこと。
二つ目、継続的な使用が身体や精神に及ぼす影響がとてつもなく大きく、
死にも直結すること。
恐らく、モルヒネ等のハード・ドラッグと呼ばれるものは、
この二つの特徴を備えているでしょう。
それらに比べてアルコールの場合はどうかというと。
1回や2回の使用で依存状態が形成されることはほとんどなく、
多くの場合、10年以上にわたる継続的な使用が依存の前提条件となります。
また一たび依存状態が形成され、その後も連続使用が続いたとしても、
身体や精神の健康に及ぼす影響は、深刻であっても、時間がかかります。
つまり相対的に(ただしあくまで相対的にですが)、
アルコールのもたらす悪影響は、
ハードドラッグよりもソフトであり、
多くの人びとが依存状態に陥ることなく使用できている点に特徴があります。
殆どの国の法は飲酒を禁止していませんし、
多くの宗教も飲酒に対して寛容です。
恐らくこれまでの日本では、
かなりの数の男性が潜在的な依存状況になってきたと想像されますが、
依存の形成に時間がかかるため、彼らが依存症になった時には、すでに現役を退き、
酒でゆっくりと身を滅ぼしながら死ぬのを待つだけになっていました。
つまり、依存症になったほとんどの男性は、放っておいても勝手に人生双六の上がりを迎えていたのでしょう。
しかし今や人生100年の時代です。
そして恐ろしいことにこの国では、格差の拡大がますます進んでいます。
タイトルに挙げた30年くらい先とは、
殆ど非正規の状態で生活を送り、年老いてしまった成人男性が、
その生きがいの乏しさから飲酒に耽溺するようになり、
しかし医学の進歩等から、
深刻な飲酒への依存状態が形成された後も無様に生きながらえてしまう、
そんなめんどくさいおっさんがあっちゃこっちゃにごろごろ、
ホンマにころがっている社会が訪れるかもしれない、想像上の未来のことです。
僕は職業上、未来が輝いているはずの若者たちと関わっています。
しかし今の若者たち、とくにはっきりといいますが、男ども、
自分自身を鍛えるべき時に携帯型コンピューターの言いなりになり、
恐らくは極めて非生産的な営為としてのテレビゲームに耽溺しています。
こいつらに輝く未来があるわけはありません。
そして僕の予想する、最も悲惨な類型の現役労働者としての人生を送り、
もっと惨めな引退人生を迎えるに違いありません。
30年後の日本の大都市の裏町には、
知的スキルも身体的スキルももたない、汚らしい飲んだくれがごろごろ、
ホンマに文字通り、ころがっている可能性が高いのです。
そこまで考えると、アルコールが社会にもたらす病理は、
今後、深刻度を深めていくかもしれません。
僕たち、現役の使用障害当事者は、
僕たちの経験値の高さゆえに、今後、発言の場が増えるかもしれません。
ごめんなさい、ホンマにとりとめもなく、ディストピアを語ってしまいました。
でも、僕の今日の語りは、正確さを欠きますが、
それほど的外れではないと思います。
使用障害の当事者、そして先輩としての矜持を新たにする必要があるかもしれません。
そこでいつものように
皆さんも僕も、今日も明日も、厚かましくも謙虚にかつご機嫌さんで
LWoA Life Without Alcohol 断酒ライフ、継続していきましょう。