僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

競うことが勤勉の証だった民族の悲劇

飲酒歴40年、断酒歴5年と6カ月、不良初期高齢者、リスボン、レベル62。

本日もリスボンの、後悔するのも人生・ノープランブログ、ご訪問ありがとうございます。

 

たしか昨日の新聞だったと思います。

Tokyo 2020 のある競技で、

コンディションが思わしくなかった選手が競技への出場をチームメイトに託しました。

日本人的なメンタリティーからすれば、

努力の末、勝ち取ったレギュラーとしての出場権をチームメイトに譲ったことは、

さぞや悔しかったに違いないといったところでしょう。

しかしその記事によれば、当の出場を辞退した選手は、

彼女の代わりに出場した選手のパフォーマンスを心から楽しみ、

そして結果に満足していたというのです。

それもチームのためというよりも、

自らのこととして楽しんでいたそうです。

 

スポーツ全般に対する日本人の偏ったメンタリティーを指摘されたようにも思いました。

 

ネットで、気鋭の政治学者、白井聡の新著を紹介する記事を読みました。

京都精華大学に勤める白井さん、個人的なつながりは全くありませんが、

日本の政治的行き詰まりを鋭く分析するその語り口には、

今後も注目していこうと思います。

 

彼によれば、Tokyo 2020 を招来したのは、

あの極右の作家にして極悪政治家の元祖の元都知事

石原慎太郎が感じていた、フラストレーションだったというのです。

ユニークな視点であることに驚かされるとともに、

白井の論述を聞けば、かなり納得させられます。

 

石原は、バブル経済崩壊以降の日本の国力の低下にイラつき、

日本の国家としての衰退を食い止めるためのカンフル剤として、

オリンピック招致を考えていたというのです。

オリンピックの開催によって日本の国際的な地位の凋落に歯止めをかけ、

組織的行動が得意な国民特性に火をつけようということだったのかもしれません。

 

どうも考えてみると、

この国では、ありとあらゆる場面で、誰かと競うことが奨励される傾向があるようです。

しかも、競うことが努力のインセンティブとして機能することだけでは満足せず、

結果が伴うことを努力への評価の絶対的前提条件とするという、

カミカゼ的結果至上主義が加味されます。

 

僕たち、昭和の時代に教育を受けた人間は、

こどものころから常に競うことを要求されていたような気がします。

その結果、競うことよりもはるかに大事なことがあることに気がつけません。

競うのも一つの生き方でしょうが、

そのこと以外に生きる意味を見つけることも、一つの生き方のはずです。

 

僕たちは、人間として最も多感な時期に、

かなり偏った価値観を押し付けられてしまったようです。

僕たちにはどうすることもできなかった。

多様な価値観についてもっと早い段階で触れたかった。

 

かなり深い後悔です。

取り返しは付きません。

でも、これから、後悔によって得た新しい視点を思い切り楽しんでやります。

 

今日はちょっと抽象的でごめんなさい。

皆さんも僕も、今日も明日も、厚かましくも謙虚にかつご機嫌さんで、

LWoA Life Without Alcohol 断酒ライフ、継続していきましょう。