今朝の夢です。
いや、夢というよりも、僕はすでに半分目覚めていたので、勝手な想像というべきかな。
とある人物とのとある出来事を思い出していました。
少しばかり甘酸っぱい思い出です。
少しばかり甘酸っぱい思い出です。
彼女の顔はぼやっとしか思い出せません。
そしてなぜか彼女のフルネームが、特に姓が全く思い出せません。
そしてなぜか彼女のフルネームが、特に姓が全く思い出せません。
何とかエミコさんという下の名前は思い出せました。
また、彼女が好んで着ていたファッションも思い出せました。
また、彼女が好んで着ていたファッションも思い出せました。
でも、顔と姓がぼやっとしか思い出せないのです。
しかし彼女と過ごした時間の甘酸っぱさだけは、妙にリアルに、
いやリアルにというよりもその甘酸っぱさだけが強調されて甦ってきます。
いやリアルにというよりもその甘酸っぱさだけが強調されて甦ってきます。
しばらくぼやーっと夢の世界に遊んでいました。
その間も彼女の姓を思い出そうとしていました。
そして突然、思い出してしまいました。
思い出したとたんに甘酸っぱい思い出の甘酸っぱい要素が消え去ってしまいました。
残されたのは、彼女の名前とその名前に付随する公的なデータでした。
つまり、客観的なエミコさんが登場し、僕の想像の世界の中だけにいるはずのエミコさんは消えてしまったのです。
つまり、客観的なエミコさんが登場し、僕の想像の世界の中だけにいるはずのエミコさんは消えてしまったのです。
名前はかくも暴力的です。
名づけは客観的な思考の最初のプロセスですが、名づけに着手したとたんに僕たちは世界を狭めてしまうのです。
最初僕の想像の中にいたエミコさんは、僕だけが知っている生き生きとしたエミコさんでした。
しかし彼女の名前が復活したとたん、エミコさんは、公的なデータ長の中に記載されいるエミコさんに収斂してしまったのです。
しかし彼女の名前が復活したとたん、エミコさんは、公的なデータ長の中に記載されいるエミコさんに収斂してしまったのです。
量子力学では、ものの位置と運動量を同時に知ることはできないそうです。
このことを人に対する認識に置き換えてみると、
位置が客観的なデータだとすれば、運動量はパーソナルなポテンシャルといったところでしょうか。
位置が客観的なデータだとすれば、運動量はパーソナルなポテンシャルといったところでしょうか。
つまり、名前を中心とした客観的なデータから人を知った場合、
その人の無限のポテンシャルにはふたをしてしまうことになります。
その人の無限のポテンシャルにはふたをしてしまうことになります。
逆に、無限のポテンシャルのもたらす世界に遊ぶ限り、公的な社会性をある程度は犠牲にしなければならないのかもしれません。
ぼやっとした半覚醒状態の中で感じたことを、ワン姫と散歩しながら振り返ってみました。
このことを僕たち断酒生活者、アル症者に当てはまるとどうなるのかについては、また考えてみたいと思います。