酒の味を全く知らない、こどものような「こころ」でいられたら、この戦いそのものが存在しません。
そして世の大半を占めている(筈だよね)アルコール依存の形成されていない人びとにとっても、戦いという大げさな言葉そのものが意味をもちません。
しかし僕たちにとっては、この戦いが残された人生の最大のテーマの一つであることは、間違いありません。
以前にも書きましたように、僕の断酒生活は強制入院とともに始まったこともあり、再飲酒への誘惑に苛まれることは、殆どありませんでした。
そして幸いなことに、自宅での療養生活を送っている現在も、「飲みたい~~~!」とのどをかきむしることは、ありません。
でも、ふとテレビの旅行番組で、食事のシーンが映され、美味しそうな料理とともにワインかなんかが登場すると、
あの楽しさや華やぎを経験することは、もうないんだな、と寂しく感じることは事実です。
或いは、依存症が形成されていても、ビールの1杯くらいなら、大丈夫じゃないの、試してみてもいいよね、という、不埒な思いが、心に浮かぶ瞬間もあります。
でも、そんなときに一番効果的なブレーキは、誰か、先輩のブログの中で見つけた、
「また、同じ苦しみを繰り返すんやぞ、分かっているのか」という、戒めの言葉です。
40年かけて、体、特に肝臓を苛め抜きました。
40年かけて、心の健全な機能の一部を壊してしまいました。
40年かけて、家族に迷惑をかけるめんどくさいオッサンになってしまいました。
その1杯によって、40年ではなく、もっと短い期間でこんなやばい状態が達成されてしまう、危険な心身になってしまっているのです。
この危険に対する恐怖こそが、僕たちにブレーキをかけてくれる、最大の味方の一つじゃないでしょうか。
今日も一日が無事に過ぎますように。