僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

仮面都市

かなり前ですが、「大都市とはどのような空間なのか」という事をテーマにした研究を行い、学会発表を1回、研究論文の発表を1本、行いました。
そこでの結論は、「大都市とは空間のマルチ・リンケージとその効果としてのマルチ・パーソナリティーが可能な空間である」という、カタカナ使い過ぎやろ、というものです。

カタカナを使わずに書いてみると、高層建築や地下空間、そして交通手段が多層化することによって、大地と人格との直接的な距離感が希薄な空間、それこそが大都市である、ということです(って、全然、分かりやすくなってないですが)。

もっと言えば、都市設備や建築が道具的かつ情報的にあまりにも便利になりすぎた結果、あんた、どこの誰、という事を誰もが問わなくなってしまった空間、それが大都市であると。

今回、平成の大ネタ男、ザ・ねずみ男Y.Masuzoe騒動を見ていて、以前のブログにも書きましたが、今回の問題は、ザ・ねずみ男個人の問題であると同時に、世界にも恥ずかしいくらいに誇れる一大仮面都市、東京の問題なんやな、と新たに感じました。

大阪の人間が東京を毛嫌いすることの一因も、なんとなくわかったような気がします。
東京という街では、殆どの人が大地から足が離れているため、全てのコミュニケーションが浮ついた、表面的なものになっており、素朴なホンネの活躍する場所がないのではないか、と感じられるのです。

僕は高校卒業まで伊豆半島で暮らしていましたが、僕たち伊豆っ子の殆どは、進学にあたっては首都圏を目指しました。しかし僕は、横浜から東は千葉、北は埼玉まで街並みの切れることのない東京を中心とした都市の風景に、素朴に恐怖感を感じ、関西の大学を目指しました。

もちろん、東京圏にも地に根をしっかりとおろした人たちが暮らす、素敵な街並みがあることも知っています。また、日本の東京以外の大都市圏においても、大なり小なり都市独特のええかっこしいの文化があることも感じています。

でも、世界中の都市に比べてみても、(想像の範囲を超えませんが)東京という街の仮面度は、群を抜いているように思われるのです。

もう一度、書きましょう。東京という喜劇、そして東京という悲劇。

ザ・ねずみ男をこの悲喜劇のトップリーダーの座から引きずり下ろすのは、なかなかめんどくさそうですね。

都民の皆さん、思い切ってリコール運動を起こしてください。
僕たち、非東京民は、この問題に直接かかわることが難しい。でも、すでに日本の恥ずかしさの問題になっています。
あなたたちの使命は、小さくないですよ。

皆さん、僕も、今日もご機嫌さんで LWOA Life Without Alcohol 断酒ライフを。