僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

今さらですが、ネットって

バカとはさみは使いよう。

かつて僕は、デジタル文化の過度な生活空間への浸透について、その危険性について考えていたことがありました。

デジタル文化は、身体と世界の関わり方を根本的に脱構築してしまう
デジタル文化は、五感(時には六感)を駆使する感覚体系を無意味化してしまう
デジタル文化は、モニターを凝視する眼と、モニターに触れマウスを操りキーボードを操作する手を、特権化してしまう
デジタル文化は、物理的パラメーターとしての存在座標を無意味化する

etc,etc...

要は、コンピューターやスマホのモニターが世界の全てになってしまうような世界と、その世界内存在としての身体のあり方について、
素朴な危機感を感じ、その危機感に理屈を与えていた訳です。

現実は、僕の恐れる方向にも進んでいます。

でも、現実世界への新たなアクセスの一つの道具としてのデジタル文化の活用も、当たり前になりつつありますよね。

僕個人に関していいますと、最近、ネットって、やっぱすごくね、と今さらながらの感想をもっています。


最近、シェーンベルクの晩年の大傑作、弦楽三重奏曲の楽譜を、PDFデータとして手元でプリントアウトしました。

ネット上に公開されているPDFデータをプリントアウトすることなんて、ネットの活用法としては基本中の基本じゃん、とツッコミが入りそうですが、

僕がクラシック音楽にのめりこみ始めた中学生から高校生の頃、シェーンベルクの楽譜を入手するなんて、いやいや入手するどころか、ちらっと閲覧することすら、ほぼ不可能でした。対価の問題としても、情報源へのアクセスの問題としても。

おそらく、1970年代の日本では、シェーンベルクのような前衛的なクラッシク音楽の楽譜を入手しようと思えば、銀座のヤマノ楽器に行って、ウン万円の出費が必要だったと思われます。
楽譜も在庫がなく、海外からの取り寄せになったでしょうね。

でも、今では、家庭でできてしまう。

デジタル情報の活用という点からは、どうということはない、ごく普通のことです。

でも、ン十年前に、とんがった音楽の楽譜に対して天上物に対するような憧れを抱いていた少年であった身からすれば、とんでもないことですよ。ハイ。

このとんでもなさに対して、当たり前じゃん、と思いつつも、いや、とんでもなくすんげ~ことだと感心する感覚、

素朴すぎるかもしれませんが、捨てたくないですよね。

僕は時代遅れの感覚とともに生きています。
でもそれを恥じるつもりはない。
むしろ、時代遅れの素朴な感覚を楽しむことができることに、誇りをもっています。

古い奴だとお思いでしょうが、今日も皆さん、心と体を大事に、楽しくご機嫌さんで、LWOA Life Without Alcohol 断酒ライフを。