僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

細胞は老いる・・・よね

肝硬変、最終ステージ診断から半年を経過した、リスボンです。
肝硬変経過観察のための入院を終えた後に、アルコール依存症専門外来にもお世話になってなっています。



さて、昨日アップしました「すげ~ぞ 要一」の続き、もう疲れちゃって書けません。

昨日の都議会の一般質問、質問に立った15人の議員全員に対して、質問には具体的には答えず、
「私が悪うございました、失われた信頼の回復が難しいのは重々承知しておりますが、がんばります」
と、全くおんなじ答えの繰り返し。

厚顔無恥とは、まさにこのことか。
いやいや、普通のことわざや四文字熟語ではすでに表すことのできない境地に行っちゃったね、要一。

結局、千葉のホテルでの正月の政治活動に関する会議、これが全くの嘘なんだよね、きっと。
5月13日の記者会見で、家族との正月旅行を政治活動と言いくるめるために、編み出した必殺技、重要な会議。
でも、これが作り話だから、結局後に引けなくなってしまった、ってあたりが、ホンマのとこと違うかな。

要一値の確定は近いでしょう(要一値については、昨日の投稿を参考にしてください)。


僕は57歳にして肝硬変という大病に会い、アルコール依存症という、人間存在としての不可逆的大変化に会いました。

いろいろ考えます。

当然の報いである、したがっていかなるつらさも不平を言わず耐えなければならない。

そうかもしれません。

アルコール依存症は立派な疾病であり、アルコール使用障害という概念で捉えることができる、社会的支援の対象である。

理解してもらいにくいと思いますが、そういう側面についても発言していく必要はありそうです。

(特に、僕の場合、障害学という学問領域にも関わっていますので、当事者学という観点から考えることもできます。今後、アルコール使用障害の当事者としての発言ができるかどうか、考えていきたいと思っています。)

面倒な話は少し脇に置いといて。。。

肝臓を患ったが故に、基本的な体力が劇的に落ちるという経験をしています。
色々な作業(知的作業も含みます)に対する耐久性が著しく落ちました。
また、瞬発力も劣化したようです。
そして、肝臓障害とともに軽度の神経障害も経験したようで、日常的な当たり前の作業に、停滞を生じるようになっています。

ただ、僕の場合、少しめんどくさいのは、これらの体力や地力の減退が、加齢に伴う自然の成り行きとも考えられそうなことです。
年齢を重ねれば、体力が落ちるのは当然です。
認知症というわけではありませんが、若いころより脳内のシナプスの連携性能は落ちていることでしょう。
体力の著しい減退とともに、いわゆる五十肩というつらさも体験しています。
特に、着替えの時に左腕に袖を通すという、単純極まりない作業、毎朝、嫁さんに嫌がられながら、痛ててててててて、とうなっています。

加齢や疾病による体の変化、昔はできたのに、といって悩むより、今はできない自分がいる、できない自分として世界に向き合おう、と開き直るのが、一つの手ではないでしょうか。

もっと厚かましいことを言うと、神様が、若い時とは異なる自己を経験するおもろいチャンスを与えてくれた、それなら、その新しい(?!)自分を思いきり楽しむことに、残りの人生をかけてみよう、と、はた迷惑なポジティブ・シンキングに身を任せるのもよいのでは、と発想を転換させましょう。

どうせなら一度限りの人生、そしてそれぞれに異なる、正解のない課題としての、人生、苦しむだけよりも、楽しみましょう。
楽しいは、単なる楽(らく)ではありません。
積極的に現状と向き合う楽しさもあると思います。

苦しさを知るが故に、他人の痛みを垣間見ることができる、ということもありますよね。

今日も、皆さん、そして僕も、ご機嫌さんで LWOA Life Without Alcohol 断酒ライフを。