僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

モーツアルト

もうすぐ、肝硬変の診断を頂戴してから5カ月、ダブルパンチとお友達、リスボン、57歳です。
本格的に復職して1週間、復職後、初めての土曜日、心地よい肉体的疲労を覚えながらのんびりしています。

僕の職業は、障害者福祉とその理論、そして造形芸術に関する実践と理論を結びつけることを大きなテーマとしています。
ですので、履歴書的なキャリアからは、僕は造形芸術の業界に属するものとして、見做されることになります。

しかし、以前にも何回か書いていますが、僕は同時に音楽家です。
誰が何といおうとも。
ぷんぷん。

(別に誰に文句を言われている訳でもないのですが、何故かこのことを考え始めると、口がとんがってまいります。)

演奏家としては、アマチュアではありますが、ジャズ・ピアニスト兼ヴォーカリスト、そしてごくたまにパーカッショニストです。

かつてプロとして生計を立てていた立場から言うのですが、ジャズにしてもポップスにしても、妙にテクニックがあるが故に、すれっからしになってしまったミュージシャンよりは、正職につきながら楽しみとして音楽に取り組んでいるミュージシャンの方が、音楽に対する気持ちが信頼できるように思っています。

リスナーとしての僕は、相当に偏屈な音楽愛好家です。

まずほとんど、音楽を聴きません。
たまに聴くにしても、聞き流すという聴き方は耐え難い。
聴くのであれば、集中します。

そして聴くジャンルが極めて偏っています。
クラシックか、ジャズ。
クラシックも、基本的にはバッハ以前か、シェーンベルグ以降か。
つまりバロック音楽を中心とした古楽か、調性が崩壊した近代から現代にかけての音楽かの、どちらかです。

クラシック音楽の王道(?)ともいうべき、ロマン派の音楽が含まれないのです。

(とはいっても、チャイコフスキーは大好きですが。)

さて、そんな中で、モーツアルトです。
モーツアルトは、いま言った僕の守備範囲からは、外れます。
でも、クラシック音楽の世界で、ほんまもんのキチガイ寸前の(差別用語かもしれませんが)天才といえば、


をおいて他にはいません。

バッハは、バロック音楽を集大成する中で、調性音楽(ドレミで成立する音体系)の無限の可能性を呈示しました。
ハイドンは、その調性音楽の可能性を、音楽の幾何学的形式性の中で立証しました。

そしてモーツアルトは、その短い生涯の中で、調性音楽の情緒的可能性について、超越的なレベル、人間の域を超えたレベルまでをも、呈示しました。

極端な言い方をすれば、調性音楽の純粋な音楽的可能性は、モーツアルトによって非人間的なレベルまできわめられてしまったのです。

ベートーヴェンは、音楽を人生を表現するメディアに変えて、その可能性を追求しました。
ベートーヴェン以降の作曲家たちの交響曲の数が激減するのも、大規模な室内楽としての交響曲から、人生や世界を語る音楽としての交響曲へと、変質していったからです。

そういう意味では、モーツアルトはすごいです。
調性音楽を究めたのはモーツアルトなのです。

僕の大好きなバッハとはまた違った意味で、とんでもない奴です。

もう少し人生の余裕が見えてきたら、このキチガイ天才(繰り返しますが差別用語かもしれません)とも取り組んでみたいと思います。

クラシック音楽もおもろいっすよ、
というわけで、

今日も、皆さん、そして僕もご機嫌さんで、LWOA Life Without Alcohol 断酒ライフを。