飲酒歴40年、断酒歴7年と11ヶ月、不良初期高齢者、リスボン、レベル65。
本日もリスボンの、僕は幸運だったのか不運だったのか・ノープラン・ブログ、
ご訪問ありがとうございます。
今年も残すところ、わずかに3日、一年の振り返りをブログという形で残しておこうと思います。
と言いつつも、多分、今日の僕の報告は、
またも今日の日本社会を強烈にディスってしまう中身になりそうです。
今年度は、これまでも何回か報告していますように、
僕の表向きの仕事である、大学教員としての最後の年になりました。
教室で学生たちと直に接触する機会も、あと、6回、
ホンマに人生スパンの中で押しつまりました。
そんな中で、今日は、今年の最後の授業年度について考えたことを記します。
今年の僕の授業展開の中で、常に悩まされた問題が一つあります。
それは留学生にまつわる懸念です。
もっと言えば、中国からの留学生たちの学習意欲にかかわる懸念です。
今、日本の殆どの大学が、いろいろな理由から、中国からの留学生を受け入れています。
いろいろな理由というのも、
表向きの前向きに見える観点と、
日本の社会が抱えている負の側面の病理の一つとしか言えないようなネガティブな観点とあります。
表向きの観点というのは、大学が留学生を積極的に受け入れることによって、
日本の高等教育における国際化を推進しようというものです。
21世紀の世界をリードしていく若者たちが、国の違いを超えて同じキャンパスで切磋琢磨する、
素晴らしいことになり得ます。
なるべきです。
でも、僕が僕の教師生活の最後の数年間の間に目撃し、そして僕自身も巻き込まれた現場の実相は、
全く異なっていました。
僕は今年の授業展開の中で、
何回か真剣に怒りました。
こんなに教室で怒りを爆発させた年はありません。
そして僕を怒らせた原因の中心は、中国からの留学生たちの学習に対する態度でした。
ここから、客観性よりも、僕の主観的な判断を記述します。
彼ら、中国からの留学生の何が僕を怒らせたかというと、
ハッキリ言います、学習意欲が全くないことです。
学習意欲が全くないにもかかわらず、教室にはやって来ます。
出席点を確保するためです。
そして講義室で堂々と、イヤフォンを耳に装着しながら、
スマホやパソコンの画面を眺めています。
僕は20世紀と昭和の感性で行動していますので、
そのような彼らの立ち振る舞いに対して、
僕の授業ならびに僕という人格に対する攻撃的で悪質な侮辱行為と理解します。
自らのせい一杯の誠意と人格を目の前で否定されて黙っていられるほど、
僕は人格者?ではありません。
そして僕の怒りにさらに火を注ぐのが、
日本語力の乏しいまま日本の大学に留学した彼らは、
僕の怒りの意味を理解しません。
日本人学生の知性の劣化も甚だしいのですが、
しかし日本人学生は、ジジィが声を荒げだした時に、
ジジィが何に対して怒っているのかはわかっています。
しかし中国からの留学生は、違います。
教壇から怒りの声を上げても、彼らの耳には届きません。
こちらから当該の学生の近くまで行き、直接指ささない限り、当事者意識をもちません。
僕は僕自身が怒っていることについて、
同席している他の学生諸君には申し訳ないと思います。
彼女たちの授業を受ける機会を僕は結果として減らしてしまうことになるからです。
学習意欲も日本語理解力も乏しい中国人留学生の問題は、
講義科目であれば、担当教師が無視すればよいだけのことです。
しかし大学の専門科目の中心を占める演習や実習では、
より深刻な事態が生じます。
教室に意欲も理解力もない若者が少なからず存在することによって、
残念ながら授業のレベルが格段に落ちてしまうのです。
つまり学力に難のある留学生の受け入れは、
意欲にあふれる日本人学生の学習の疎外を招来してしまうのです。
僕はその事態を避けたいためにも、教室で怒りの声を上げてしまいます。
所属する機関会議でこの件について同僚に問題提起を投げかけたところ、
議論は僕の思惑とは異なり、
授業担当者としての僕のアンガーマネジメント能力の欠落に焦点が当てられました。
僕の過剰な怒りの表明が、他の学生のメンタリティーを傷つけることになったと非難されました。
日本の多くの私立大学は、経営上の観点から、中国からの留学生を受け入れざるを得ません。
日本の大学は、中国の大学教育の植民地に堕落してしまったのです。
中国人留学生の殆どは、日本に学びに来たのではありません。
中国で希望する大学に進学できなかったため、
日本語ができなくとも卒業させてくれる日本の大学にやって来たのです。
そこまで日本の大学制度は、なめられているのです。
もちろん、先ほども触れたように、日本人の若者たちの知的なレベルの低下も、深刻です。
しかしそれ以上に、中国からの留学生の質の低下、
そしてそのことがもたらす大学教育全体の質の低下は、
大学制度そのもの壊滅に直結しかねない危険性を秘めています。
僕が不運だったとすれば、
教師として経験値がマックスを迎える年に、それを活かせるチャンスがなかったことです。
そして幸運だったとすれば、
大学制度の根本的な壊滅の現場に立ち会うことなく、正式に逃亡することができることでしょう。
今年を振り返ると言いながら、えらい大きな問題について、勝手に書き散らかしました。
でも僕は嘘はついていません。
客観的な分析ができているわけではありませんが、
現場の声の一つとして読んでいただければと思います。