飲酒歴40年、断酒歴6年と3カ月、不良初期高齢者、リスボン、レベル63。
本日もリスボンの、旧人類の嘆き?ノープランブログ、ご訪問ありがとうございます。
3年ぶりの大講義室での講義授業、
肉体的にはかなり消耗しますが、楽しくやっております。
同じ内容の講義を、受講学生を入れ替えて、1講時目と2講時目に連続でやっています。
1コマあたり、100分、ほぼ僕が一人でしゃべり続けています。
古臭~い授業のスタイルです。
でも、新しければええってもんでもないやろということで、
内容は毎年、ブラッシュアップしながらも、様式美?を頑なに守り通しています。
今日は、18世紀から19世紀にかけてのイギリス社会の階層構成の変化について話しました。
特に、従来からの上層階級であるジェントリ(地主)階層と、
特に教育面を中心に解説しました。
ジェントリ階層の自らの子弟たちに対する教育は、
古典的な教養の獲得を最も重要な目的としており、
実用的な教養を第一に考えるブルジョアジーの教育方針とは異なるという説明をしている時に、
ふと虚しさを感じました。
僕が感じた虚しさは、僕のわがまま勝手な被害妄想によるものかもしれません。
僕は、ここ30年ほどの日本の大学において続いてきた、
実践的な知識や技能の獲得を重視するあまり、
教養教育が軽視され、カリキュラム上で縮小処置がとられてきたことに対して、
常々、疑問に感じてきました。
美術大学という場所では、実技系の科目を指導する教員の方がでかい顔をし、
僕たちのように、理屈をメインで講義する人間は、軽視される傾向があります。
そのことに対する憤りや不満もありますが、
僕は、
ここ10年ほどで顕著になってきたこの国の総合的な力の低下の根本的な原因の一つが、
大学における教育の質の変化にあることを感じてきました。
大学で若者たちは、すぐには役には立たない、
でも社会の成り立ちの根本にかかわる地道で基礎的な考察作業を行うべきなのです。
古典的な教養の獲得を目指したジェントリ階級の教育について説明している時に、
今の若者たちは、古典的な教養といわれてもピンとこないだろうなと思い、
芸術やデザインや、障害者福祉の、理論的な基礎の研究や教育に、
生涯の何分の一かのエネルギーを割いてきた俺の人生ってなんやったんやろうなと考えてしまったのです。
薄っぺらい疑問に対して、ネットを頼りに薄っぺらい答えを探して満足してしまう。
それが現代人の生き方というのであれば、僕は旧人類と呼ばれようとも、
断固として拒否します。
僕自身は、大学院生時代、がっぷり四つで洋書に取り組むというしんどい作業に明け暮れましたが、
この作業が僕の人生の基礎工事をしてくれたと思っています。
その後、過剰飲酒で精神と身体を病んでしまい、
一度垣間見た地獄から生還するという貴重な体験もしました。
そして今、さらに生き抜いてもっと人生を面白がってやろうという厚かましい欲望に燃えていますが、
この厚かましさの基礎を作ってくれたのも、
若い頃の地道な教養訓練のおかげだと思っています。
ふと虚しさも感じましたが、
しかしうっかり僕と出会ってしまった若者たちには、
ひたすら思考を深めることの意義や面白さについて、
嫌がられながらも説き続けようと思います。
一度、死に損なった人間、
多分、強いよ。