僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

見えにくい生きづらさ

もう完全に冬が見えてきました、でも元気です、アル症・肝硬変、リスボン、58歳。

本日もリスボンの、読みづらくてすみません・ノープラン・ブログ、ご訪問ありがとうございます。


先日、アルコール使用障害は、障害学の対象たり得るかという文章を書いてみました。

まぁ、世間一般に流通しているであろう、いわゆる普通の見方では、
アル症を障害に含めて考えることはしませんよね。

せいぜいのところ、治癒のあり得ない精神疾患であるといった理解にとどまるでしょう。

何しろ僕たちアル症者は、酒に手を出しさえしなければ、基本的には不自由なく生活できます。

少なくとも、アル症であるがゆえに社会的生活の中で不利益を被るということはないですよね、
つまり、アル症は障害のジャンルには含まれないということになりそうです。

しかしここで少し視点を変えてみましょう。

皆さんはご自身がアルコール依存症であることを、どのくらいの人にカミングアウトしてらっしゃいますか。

あるいは、初めて会った方にそのようなカミングアウトをすることはあり得ますか。

僕の場合、家族は全員知っています。
職場では、理解してもらえそうな同僚にはカミングアウトしました。
ただし、その数はごくわずかです。

そして僕も、初めてあった人にアル症であることを告白することは、まずないです。

つまり僕たちは僕たちのアイデンティティーの一部について、
他の人に向かってすっと語ることには抵抗を感じていることになります。

なぜでしょう。

おそらく、僕たちのカミングアウトに対して予想される相手の方の反応に何らかの恐れを感じているからでしょう。

予想される反応としましては、

「酒に飲まれてしまっただらしのない人間」

あるいは

「自らの感情をコントロールすることのできない弱っちい人間」

といったネガティブな評価です。

そのようなネガティブな評価が下されるであろうことに対して予防線を張るために、
僕たちはカミングアウトをためらうことになるようです。

でも僕たちは、本当にだらしがなかったのでしょうか。
あるいは感情を抑えることのできない弱っちい、情けない大人なのでしょうか。

そうかもしれません。

でも逆に、アル症ではない人は、だらしなくはない、強い人たちなのでしょうか。

僕は、僕たちが弱い存在であると決めつけることも、
僕たちを非難できる人たちが強い存在であると決めつけることも、
危うい捉え方ではないかと思っています。

僕たちは僕たちのアイデンティティーの一部を受け入れることに対して、
自己の中では満足できるのですが、

他者との関係の中では素直には受け入れにくい、ある種の生きづらさを感じていることにはならないでしょうか。

僕はこの生きづらさをつまらないことであるとは考えたくない。

僕たちはこの生きづらさと一生、付き合っていかなければなりません。

意外に重い問題かもしれませんよ。

今日はカミングアウトと僕たちの生きづらさについて少し考えてみました。

僕は、僕たちがめげることなく断酒ライフを継続していくために、
僕たちの生きづらさについて、過大にも過小に評価することなしに考え続けていきたいと思います。

皆さんも僕も、今日も明日も、厚かましくも謙虚にかつご機嫌さんで
LWoA Life Without Alcohol 断酒ライフ、継続していきましょう。