僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

Waltz for Debby

昨日は、引きこもっていました。

といっても、湿ったイメージではなく、家内も長男もいつものように出かけ、二人とも帰ってくるのが夕刻になるという事なので、ひとりで家にいる時間がいつもより長かったという事です。

一通りの家事を済ませてから、テレビを見たり、PCに向かったり、ゲームをしたり、ピアノの練習をしたり。

ちょっとゲームはやりすぎたかな、やってて自分でも最後の方は気持ち悪くなっていたし。


で、ピアノの練習です。

断続的にではありましたが、結構、さわってましたね。

多くの先輩のブログには、

断酒の結果、それまで飲酒に当てていた時間を他のことに当てることができるが故に、充実している、
飲酒に呆けていた自分が悔やまれる、

という書き込みをよく目にします。

その通りだとも思います。

でも、ちょっと違うかなと思う部分もあります。

無駄なまでの過剰な飲酒を継続した結果、精神や生活、そして身体に深刻なネガティブな傷を負ってしまった、
それが故に、違う生き方を模索している、

という言い方もできないでしょうか。

つまり、アル症者とは、ある臨界点を迎えるまで、アル症の危険に気がつかなかった(だからアル症なんだろうけどね)人間なんだと。

アル症を診断され(僕の場合は、肝硬変も)、生活を見直そうとし、取り組んでいる、
その段階に達することができた点は、幸せだったのかもしれません。

きっと、アル症でありながら自覚もないまま(ホンマはあるのかもしれないけど)、じぶんと周囲を傷つけている人も少なくないと思うのです。

過去を悔やみ、過去を否定しようとする先輩が多いように思いますが、過去は否定できません。
でもその消し去りたいような過去があるからこそ、現在と未来があると思います。

今日は練習しながら、リリカル・ジャズ・ピアノの巨匠、ビル・エヴァンスの名曲、Waltz for Debby の新しい解釈を見つけることができました。

少し専門的になりますが、Waltz for Debby には何か所か、Am7-D7 というコード進行があるのですが、このジャズにとって基本的な和音進行に対して、下降安定形と上昇発展形の二つが混在していました。次にGm が来るか、Bm が来るかで、同じコード進行でありながら、異なるスケール解釈をする必要があったのです。
Debby をレパートリーに加えるようになってから数年がたちますが、こんな基本的なことが今まで分からなかったのです。でも、今日、ようやっと見つけました。断酒生活の中で見つけた時間と、飲酒生活の中でボケさせていた感性が働き出したのかなと思います。

来週の日曜日、5月15日、奈良のイトーヨーカ堂でのライブ、奈良近辺にお住まいの方で、リスボンめのたわごとに関心をもってくださった方、冷かしに来てください。