僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

なぜ、飲んでいたんだろう(再々)

肝臓再生医療に期待!
いやいやアカン、あかん。あんた、アル症でもアンネやで。
そう、たとえ、肝臓君を元気にする医療技術が開発されても、脳君がアルコールの支配下にあります、
ダブルパンチとお友達、リスボン、57歳。

今日も、リスボンのわがまま・ノープラン・ブログ、ご訪問、ありがとうございます。


大学は、教務歴上の夏休みに入ってからのほうが、忙しいかも。
僕も、土、日と学会、
月曜日は、障害児のためのサマー・スクール、
そして昨日は、将来日本でアートやアニメーションを勉強したいという中国の高校生をお迎えしてのワークショップと、
連日、スケジュールに追われています。

その合間に採点業務や後期の授業の準備、そして個人研究活動を行いますので、
世間の皆さんの、

「大学の先生はよろしいなぁ、休みがいっぱいあって」

という、つぶやきは、あまり当たっていないのです。


ま、愚痴というよりも、病気から復活して、仕事を元気にさせてもらってますという、うれしい、悲鳴です。


ところで、以前にも書きましたが、僕の場合、今日はええ仕事したなぁ、という日に少しだけ飲酒欲求が頭をもたげます。
飲みたくてたまらない、というのではなく、ここで一杯飲んだら、一日のしめとしてええ感じやんなぁ、という感覚ですね。

この一日のしめとしてええ感じ、という感覚、

一見すると、ごく普通の、積極的に次の日に備えるための、望ましい感覚に思えるかもしれません。

でも、やはり考えてみましょう。

一日の終わりのしめの感覚を、アルコールという液体を摂取することによって得られるという欲求。

これはまさに、薬物としてのアルコールの、薬物としての効能を期待して飲みたい、という欲求にほかなりませんよね。

つまり、薬物依存以外の何物でもないのです。

僕たちアル症者は、一度この薬物を摂取してしまうと、その摂取量のコントロール能力を失ってしまいます。
そうでない人たちも、アルコールの薬理に依存していますが、摂取量のコントロール能力は失いません。

つまり、アルコール依存になるかならないかの壁は、案外低いのです。

アルコールは、摂取節制能力を失わせるためには、ある程度の時間がかかるため、その薬物としての側面よりも、
嗜好品、文化的小道具としての側面に多くの人びとが注目してきました。

でも、僕たちのような存在が確実にいることからも分かるように、アルコールはれっきとした薬物です。

案外世間の皆さんは、このことを意識することが少ないのではないでしょうか。

僕たち、アル症者は、僕たち同士で励ましあう必要がありますが、それと同時に、
僕たちのことを理解しない多くの人たちに対しても、
アルコールという薬物のマイナスの側面に浸されてしまった者として、発言する必要があると思います。

僕たちは弱かったかもしれません。
でも、弱いことを断罪するほど、冷たい世間でもないでしょう。

僕たちは僕たちで主張をしながら、今日も皆さん、そして僕も、ご機嫌さんで
LWOA Life Without Alcohol 断酒ライフ、継続しましょう。