僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

バリアとしての酒

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今週、一挙に秋が深まりました。
近所の紅葉の写真を1枚。

アル症と肝硬変、今日は疲れを少しばかりほっこりしてます、リスボン、57歳。

本日もリスボンの、身勝手・ノープラン・ブログ、ご訪問ありがとうございます。

寒くなってきたので、帰宅後に暖かい1杯、
暖かい部屋で冷たい1杯もまた格別、
忘年会の季節ということで付き合いで1杯。

断酒者といえども、酒をめぐる情報に全く触れずに過ごすことは無理ですよね。

おかげさまで再飲酒欲求はほとんどないのですが、酒について考えることは、あります。
特に、料理と酒が組み合わされて紹介されるような情報に触れますと、
酒を飲まないということが、少しばかり寂しいことなのかな、と、一瞬、思わされてしまいます。

そこで、やはり、なぜ酒を飲んでいたのかを振り返っておきます。
なぜ、脳の一部を破壊し、僕の場合は、内臓の一部に致命的な損傷を与えるまで飲み続けてしまったのか、
そのプロセスや心の動きを思い出して確認しておくことは、
僕たちが決して忘れてはならない、行だと思います。

かつて僕は、
俺は純粋に酒が好きやネン、と言い張ってきました。

飲料としての酒、そして酒の味覚を愛していた、と意地を張っていました。

今思えば、錯覚交じりの思い込みであったと振り返ることができます。

僕は仕事を終え家に戻ると、まずは焼酎の水割りをコップに一杯、ググッと飲み干していました。
味わっているというよりも、よく言えば、のど越しを楽しんでいる、
悪く言えば、というよりも、ホンマのことを言えば、とりあえず薬物の刺激を一気に全身に行きわたらせるために、
ググッとやっていたようです。

よう考えてみれば、のど越しってやつも、ようわからんパラメーターですよね。
のどにどんな感覚器官があるのか知りませんが、のど越しを喉で感じているということはないでしょう。
たぶん、酒好き、特にビール好きが、自らの嗜好に基づく行為をある意味で美化するために編み出した、
魔法の価値基準でしょう。

1杯、ググッとひっかけた後の僕の行動は、特に変わったことはしていません。
時々、さらにググッとやるために台所に立つぐらいのことです。

でも、ひとつ変わっているかもしれない点を挙げるとするのであれば、
酒を飲んだ後の僕は、口数が少なくなっていたかもしれないことです。
普通は飲むことによって饒舌になるのですが、
僕は、特に家飲みにおいては、ドンドン静かになっていたように思います。

つまり、これは最も暗い飲み方だと思いますが、
僕は酒を飲むことによって、自分の周囲との間に壁を作ってきたのです。

家族と口を交わすことは拒否する、
ただし、だんまりを決め込むというわけではなく、表面的にはにこにこと酔いながら、
自分の好きなことをしている、

近くにいながら表向きのこと以外は没交渉にするためのバリアを作る、
僕にとっての家のみの目的は、家庭内孤立を保証することだったのかもしれません。

家族とのコミュニケーションを柔らかく拒否する、
父親と名乗る資格もなくなるくらいの、卑怯な行動であったのかもしれません。

やはり周りから見たときに度を越した飲み方というのは、健康的とは言えない原因があるものなのですね。

アル症であったことが明らかになった今、僕は、家族とのコミュニケーション、そしてディスコミュニケーションのバランスと直面しています。

でも、厚かましく元気でいきます。

皆さんも僕も、今日も明日も厚かましくもご機嫌さんで
LWOA Life Without Alcohol 断酒ライフ、継続していきましょう。