僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

敷居は下がるが、高みも下がる

飲酒歴40年、断酒歴6年と2カ月、不良初期高齢者、リスボン、レベル63。

本日もリスボンの、思いつきですが、まじめです・ノープランブログ、ご訪問ありがとうございます。

 

ちょっと今日は、屁理屈ワールドに遊びます。

 

心身ともに飲酒欲求に支配されていたかつての僕たちとは異なり、

多くの健全な機会飲酒者たちにとって酒は、

より親密な人間関係を築くための有効なツールでしょう。

 



互いに酒を酌み交わしながら、美味しいものを共にいただく。

相手のことや自分のことについて、

最初は遠慮がちに、しかし酔いの進行とともに徐々に、ずけずけと尋ね、語り合うようになる。

やがて互いの琴線に触れあうかのような共感点を見出し、

永年の親友であったかのような感情を抱いてしまう。

 

こんなふうにして、互いに分かり合えたような気になれば、

その宴席は素晴らしい成果を導き出したかのように見えます。

 

乾杯といってグラスをぶつけ合った後に、まずは一口、含み、

くぅ~ってなことを呻きながら、いやぁ、美味しいですねと、まず互いの共感空間を醸成していく。

酒には、まずは共犯関係をいとも簡単に作り上げてしまう、魔法の力があるようです。

体質的にアルコールを受け付けない人の中にも、

酒は飲めないけれど宴席の雰囲気が好きだという人が少なくないのも、

この魔法の力の効果でしょう。

 

酒はまずは、人と人の垣根を取り払い、出会いの敷居を一気に低くしてくれるようです。

そしてほろ酔いの進行とともに、

互いに言いたいことを自由にいえるかのような解放感に包まれていくことでしょう。

 

しかしその時、

互いに言いたいことを伝えあっているかのような錯覚が始まっていることにも、

注意すべきかもしれません。

ある程度酔いの回った酔っぱらいは、互いに言いたいことを言ってはいますが、

相手の言っていることをちゃんと理解しながら聞いているかどうかは怪しい。

話す内容も、酔いの進行とともに、論理性も構造性も希薄になっていきます。

 

飲酒者の頃の僕は、どちらかといえば酒に強い方だといわれてましたし、

自分でもそうだと思っていました。

でも振り返ってみれば、楽しい宴席であればあるほど、

内容面では全く通じ合っていないにもかかわらず、

リズムというかノリというか、勢いだけは共感状態にあったかのように見えた、

ホンマはムチャクチャ雑なコミュニケーションに溺れていただけだったようです。

断酒者になってから参加した宴席では、

飲酒者たちの見事なまでの堕落への変化を目の当たりにすることができ、

それはそれで面白い経験でした。

 

アルコール飲料が人と人の出会いの敷居を下げるのは確かなようです。

しかしその出会いの先に、どのようなコミュニケーション空間が開けているのかは、

案外、あてにならないような気がします。

 

機会飲酒の範囲から逸脱しない人にとって飲酒は悪ではありません。

しかし飲酒という行為ににどれだけの意味や意義があるのか、

本当に人のつながりの潤滑油として働き得るのか、

飲酒は悪ではないけれど、必ずしも素晴らしいものではないような気もします。

 

断酒ライフ・サバイバーとして、これからも観察と考察を続けてみたいと思います。