僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

場所の認識

退院してから、月1回、診察を受けに入院していた病院に行っています。
といっても、まだ2回だけですけどね。
そして、必ず病院内で迷子になります。
駐車場から受け付け、そして診察室。帰宅の際の逆のコースの道どり。
1回として、すっと行けたことがありません。

僕は方向音痴ではありません。
初めての街で、180度、感覚が回転してしまうことは、たまにあります。
でも、おそらくは、全くの方向音痴ではないと思います。

なのに、あんなに長い時間、お世話になった建物の中で、迷子になるのです。

入院中、42日間、病室で暮らしました。
病室は、4人部屋仕様の、面積の関係上の2人部屋でした。
僕は廊下側のベッドで寝起きしていましたが、たまには病室の窓から外の風景を確認することができました。
また、病室のある階のサロンのような場所から、別の方向の景色を眺めることもありました。

しかしそのような断片的な風景情報からは、僕は僕の病室を、僕の知っている(筈の)地図情報と、しっかり重ね合せることができませんでした。

今、冷静に振り返れば、ある窓からは有名なお寺の一部が見えていたり、別の窓からは、日本でも珍しい、ある時は通常の専用レーンを走る普通の鉄道、ある時は路面電車、そしてある時は地下鉄という、1連の車両が3通りの営業走行を行う列車の、路面走行部分が建物の間から垣間見えていましたので、病室がどのような位置にあったのかは、分かります。
しかし、入院中はなかなか把握できませんでした。

僕は入院にあたって、別の病院から救急車で搬送されました。
救急車の車内からは、外の風景を確認することはできません。
しかし、どこに運ばれるのかはほぼわかっていましたので、搬送中の大雑把な自分の位置座標は、理解していたつもりです。

いざ、初めての施設に、一切の視覚情報が遮断された状態で侵入すると、外部の位置座標と建物内部の位置座標との関係は、完全に遮断されてしまいました。

いかに僕たちの行動が、視覚認識によって蓄積される情報に多くを負っているかを、改めて知らされました。
おそらく、視覚障害とともに暮らしている人たちと、僕たちとでは、空間認識のあり方はかなり異なるんだろうなと予想されます。

当たり前といえば当たり前、でも、いかに人間の能力って不完全でいい加減なものなのかを再確認しました。
おそらく、このいい加減さも、きっと大事な意味をもっているんだろうな、とも思います。