僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

もしかして(あくまでもしかして)失ったもの 現代美術シーンへの参加

酒を飲まなくなってから失ったものについて、考えてみました。

僕の場合、一つだけはあるような気がします。

それは何かといいますと、現代美術シーンという業界への、参加の密度です。

おそらくアート・シーンという業界は、そこに参加していない人びとにとっては、全く正体のわからない、不思議なところに見えるでしょう。

殆どのアーティストは、自らの財力(労働時間+私財+社会的安定の放棄)の全てをつぎ込んで、作品を制作し、発表します。
そして殆どの場合、その財力を対価として作り上げた作品は、経済的価値にすぐに置き換わることはありません。

そのような作品の発表の機会に同席しようとする、アーティストではない関係者が、ギャラリーに足を運びます。
(僕もそのような中の一人でした。)
そのような人びとの中には、アーティストが発表した作品を経済的な価値に置き換えることのできる財力をもった人びと、コレクターが含まれる可能性はありますが、日本ではコレクターという人びとの社会的な地位はまだまだ十分には認識されていません。

とすると、現代美術シーンという業界に集う人びとは、何を目的としてそこに集まっているのでしょうか。

一つ考えられるのは、感性のとんがったアーティストが、彼女/彼の人生の全てをかけて作り上げた新しい価値観の社会的デビューの場に同席するという、共犯的かつ文化的な昂揚感の共有でしょう。

そしてアーティストの個展という新しい価値観の呈示ならびにその共有の場の初日においては、その文化的かつ精神的な連帯感を確認するために、ギャラリー・スペースでパーティーが開催され、さらにそのパーティーの興奮は、2次会という場所へ引き継がれていくのです。

アーティストと関係者にとって、個展のオープニング・パーティーとそれに続く宴席は、ただの楽しみの機会ではないのですね。

僕もかつては、知り合いのアーティストを中心に、気になる新作展には足を運び、アーティストや関係者と酒を酌み交わしながら、情報を交換し、時にはお互いの価値観をぶつけ合うバトルを楽しんできました。
そしてそのような場に積極的に参加する者同士、互いを、価値観を共有する土壌をもっている業界人として認め合うような景色が出来上がっていたのです。

おそらく酒を止めてしまおうとしている僕は、かつてほどそのようなシーンに積極的に顔を出すことはないでしょう。
もちろんそれは断酒だけが理由ではありません。
酒を飲まずにパーティーや宴席に参加することはできます。
しかし、断酒という積極的な行為(何かをあえてしないという意志の表明としての行為)にエネルギーを振り向けなければならない身にとって、まだまだ仙人のような境地に到達することはできません。

断酒を継続しなければならないことと、(錯覚かもしれませんが)ある種の文化的価値観を共有する機会への参加、
今の僕にとってどちらに軸足を置くべきかははっきりしています。
あえて行わないという経験の積み重ねが、僕を少しばかり(というかかなり)歳をとったアート愛好家へと成長させてくれることを期待しましょう。

飲まない、という積極性。