僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

現代美術はおもろい

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アル症と肝硬変、やっぱり肝硬変の方がめんどくさいかな、ダブルパンチと仲良く格闘中、リスボン、57歳です。

升添要一のギネスに挑戦も、一応の区切りを見せました。
でも、都民の皆さん、不明な点はいっぱい残ってますよ、これで幕引きにさせてはだめです。

しかし、よくもあれだけ、都民や国民を小ばかにした屁理屈を連発しましたね、元東大の先生。
彼は、まだまだ自分を正当化する小理屈を出してきそうな気がします、恐るべし、ジコチュウ理論製造ロボット21世紀改造型、マスゾエ君号。
リオ、ホンマに人の金で行きたかったんだろうなぁ。
遠いぞぉ、南半球。エコノミーで自腹で行きや。



さて、こちらの仕事の話です、恐縮ですが。

昨日、大阪の国立国際美術館で開催中の、「森村泰昌 自画像の美術史 『私』と『私』が出会うとき」、見てまいりました。

僕の研究テーマの一つとして、「障害者による芸術表現と現代美術」という項目がありますので、現代美術の展覧会を見学し、業界の最前線について触れておくのは、仕事の一部になります。
この展覧会で作者の森村は、自らが古今東西の重要な画家に扮し、その写真(および写真に手を加えたもの)を中心に展示しています。
写真は、レオナルド・ダ・ヴィンチにふんした森村作品の一部の拡大です。

アーティストが誰かに化ける、或いは誰かではないとしても別のペルソナに扮するという仕事は、取り立てて森村のオリジナルというわけではありません。
代表的なところでは、森村も今回取り上げていますが、シンディー・シャーマンあたりがそのような仕事のパイオニアに当たります。

しかし森村の今回の展示のすごいところは、美術史上の重要な画家になりきるという「なりきり」の面白さにとどまりません。
むしろ、なりきったうえで、その成果をどのように空間的な仕掛けとして配置するかという、展覧会全体のインスタレーションにその神髄が現れていそうです。

森村の「なりきり」は、ムッチャ、手間とお金がかかっています。
衣装や背景の手配、メイクアップ等に至るまで、相当多くのスタッフが関わっていますし、展覧会の〆(?)として上映される映像作品も、手間と費用を惜しまずに制作された、見ごたえのあるものです。

森村は、手間のかかった「なりきり」と手間のかかったインスタレーション、そして映像によって、僕たちに対して、

「あんたらとアートって、どんな関係にあんねや(?)」という

楽しくも結構シリアスな問いかけを投げ掛けているようです。

ヴェラスケスと彼の最大の傑作であり、美術史上において多くの問題を投げかける問題作、「侍女たち」を取り上げた一室では、森村はヴェラスケスになりきるのみならず、「侍女たち(ラス・メニナス)の登場人物にも扮し、さらには、登場人物が複雑に交錯した複数の「ラス・メニナス」を展示し、アーティストとモデル、アーティストとパトロン、そしてアーティストと後世の観照者の関係について、さぁ、これはどういうこっちゃネン、考えや、と脅しをかけてくれているようにも見えます。

映像作品の中でも、森村の扮するアーティストは全員、(森村が演じているので当然ですが)関西弁で語りかけてきます。
或いは、森村が入場者に向けて作成したリーフレットには、こんな風に見てみると、おもろいでっせ、という話しかけがあります。

現代美術は、ある程度の知識や思考体験があった方がより楽しめます。
でも、森村は、ハイ・カルチャーとしてのアートと、大衆文化としてのアートの自然で無理のない連続的体験を提案しているようにも見えます。

面白いですよ。

といっても、19日までなんですけど。

来週は、東京に出ていきまして、森美術館の「六本木クロッシング」、思いきり楽しもうと思います。

今日も皆さん、そして僕も、ご機嫌さんで、現代美術とともに、LWOA Life Without Alcohol 断酒生活を継続し、楽しみましょう。