僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

アル症者は意志が弱かった?(序のはじめ)

アル症と肝硬変と仲良く格闘中、研究者、リスボン、57歳です。
リスボンの独善と偏見の独り言ブログ、ご訪問、ありがとうございます。
ちなみに、たまたま1週間ポルトガルに滞在したことがあるので、リスボンと名乗っていますが、別にポルトガル語ができるわけでも、ボルトガルやリスボンに詳しいわけでもありません。


アルコール中毒(アル中)、アルコール依存症、アルコール使用障害。
僕たちがともに生涯を送ることになった悪友たちに、世間はいろいろな呼び方をします。

この中でも、アルコール中毒、そしてアル中という言い方が、多分、一番、使用頻度が高いんじゃないかな。

でも、この呼称、ある誤解と常に隣り合わせですよね。
その誤解とは、酒乱という言葉と、アル中という言葉の、妙な近親性です。

人によっては、というよりも、大多数の人びとが、酒乱とアル中という言葉を混同しているきらいがあります。

酒乱とは、飲酒中に周囲に迷惑をかけてしまう人のことを言います。
アル中とは、アルコール依存症、或いはアルコール使用障害という概念と同一であると捉えるのであれば、
飲酒行動の開始とともに、自らの飲酒量の制御ができなくなってしまった精神疾患のこと、あるいは依存的症状のことですよね。

少なからぬアル中者、或いはアルコール依存症者が、酒乱の傾向を示すのは、残念ながら事実のようです。

というわけで、アル中者、アルコール依存症者に対する社会一般の見方は、おそらくはやさしくはありません。
少なくとも、共感的に理解してくれる人は、僕たちを支援してくれる一部の専門家に限られるようです。

そしてアル中者、アルコール依存症者に対する世間の冷たい見方は、

「あんたら、自分の意志の弱さから酒量がコントロールできなくなった、だらしない人たちでしょ」

というものであると思われます。

僕たち、アル症者は、
自らの飲酒量を自らの意志でコントロールすることを放棄したが故に、勝手にアル症になったんでしょ、
というわけです。

この見方は、しかし、相当に根深い問題を含んでいるように思います。

そして、日本に200万人はいるとされるアル症者の問題を考えるうえで、アル症をあくまで個人の問題であると矮小化させてしまい、そこに確かにある社会的な病理としての側面、そして当事者の総合的な人権を侵害する恐れのある側面があるように思われます。

僕たちは、意志が弱いが故にアル症と付き合うことになったのでしょうか。

各個人の問題として考えれば、そうであると答えざるを得ない人もいるでしょう。
僕も、僕自身に僕自身の酒を飲みたいという意識をコントロールすることについての甘さがあったことは、認めざるを得ません。

しかし、全てを個人の資質や努力の問題に帰してしまうことによって、なにが明らかにされ、なにが解決されるのでしょうか。

そして、アル症者になっていない飲酒習慣者にあえて問いたい。

「あなたたちは、意志が強いのですか」

この問題は、ホンマに根が深いと思います。
研究者として、障害学と芸術学という異なる領域で考察や実践を展開することを人生最後の課題と定めました、わたくし、リスボン君は、ここにもう一つの課題を添えようと思います。

「障害者としてのアル症者の当事者学は可能か」

腰を据えて、じっくりと考えていこうと思います。

今日は暑くなりそうです、皆さん、そして僕も、あの泡の出るやつの誘惑には負けないように、今日もご機嫌さんで、
LWOA Life Without Alcohol を続けましょう。