僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

ダブルパンチ 大学の夏休み ちょっとしたメモ

アル症と肝硬変 ダブルパンチと仲良く暮らしています、アル中の先生、リスボン、57歳。

本日も、気まぐれ・思い付き・無駄話ブログ、ご訪問ありがとうございます。


僕は、精神疾患としてのアルコール依存症と、内臓疾患としての肝硬変を、併発しました。
肝硬変に伴い、肝性脳症も発症しましたが、こちらは、現在ではほぼ落ち着いているようです。
僕のような併発パターンは、先輩方の中にも多くいらっしゃると思います。

ふつう、複数の病気を併発することは、あまりうれしいことではないですよね。
そもそも、病人になってしまうこと自体が、基本的にはありがたいことではありません。

しかし僕の場合、この組み合わせが、どちらにとってもプラスに働いているように思います。

もし、肝硬変を患っていなければ・・・

僕の問題飲酒は、それほど深刻な社会性を帯びてはいませんでした。
したがって、何らかのきっかけでだらだら飲み始めてしまっていた可能性は高いです。

でも、そのだらだらした飲酒の再開が、時間の長短の予想は尽きませんが、確実に肝臓疾患の深刻化を導き、下手をすれば、というよりもまず間違いなく、生命の終わりを将来します。

僕の肝硬変は、完全なラストステージには至っていません。
したがって、1回や2回、うっかり飲酒したところで、決定的に病状が悪化することはないでしょう。
しかし、アル症ですので、必ず、毎日飲むことになります。
そして、その結果は先ほどと同じで、時間の長短の予想は尽きませんが、確実に肝臓疾患の深刻化を導き、下手をすれば、というよりもまず間違いなく、生命の終わりを将来します。(と、コピペ)

つまり、僕の場合、二つの病気がお互いにブレーキをかけあっていることになります。

これはラッキーでしたよね、不謹慎かもしれませんが。

アル症でも肝硬変でも、家族には迷惑をかけました。
でもどちらかといえば、肝硬変に伴う様々な不細工極まりない症状は、今でもあまり思い出したくありません。
あれを繰り返してはまずいぞ、そしてたとえ、この1杯くらいではああはならないにしても、俺のお友達の精神疾患は、必ずやあの状態に俺を導くぞ。

この想像は、かなり有効なブレーキとして効いています。

僕の場合、ダブルパンチは、ホンマに漫才のボケと突っ込みのように、お互いが協力して僕を助けてくれているようです。



さて、もうすぐ8月です。
大学に勤めていますと、多くの人びとから、「いつから夏休みですか」とのお尋ねを頂戴します。

この何でもない質問、でも、今の日本の大学や大学生たちが置かれている、ちょっとめんどくさい状況をあぶりだすことになります。

大学の夏休みはいつからか。
授業ベースで考えれば、教務日程上、前期の授業が終われば、学生にとっても教師にとっても夏休みということになります。

しかし、今の大学、時間割に掲載された授業をこなすだけでは、大学としての社会的な責務を果たすことができません。
いろいろな意味で、僕たち教師と学生が、社会に対してアクションを起こすことが求められています。
そして、この様々なアクション、表面上の休暇中、すなわち通常授業のない時期のほうが、進行しやすくなります。
つまり、通常授業が終了した後のほうが、研究や教育に熱心な教師、そして青春の貴重な時間を自分磨きにかけようと思っているまじめで熱心な学生ほど、忙しくなるのです。

この忙しさ、パッと見、非常に社会的に健全な状況に見えます。

でも実際には、僕たち大学関係者は、教師も学生も含めて、「何かしなさいよ」と社会から煽り立てられているいるのです。

社会は大学に対して、即戦力になりえる人材の育成を要求してきます。
多くの大学は、天上天下唯我独尊を貫くことはできませんので、社会の要求にこたえようとします。
その結果、大学は広い意味での社会貢献活動を、自転車操業で展開しなければならなくなります。

でも、この状況、ホンマにいいことなんかな?

僕はもっと学生たちに、無駄な時間を過ごしてほしい。
青臭い思考で、生意気に社会や人生を語ってほしい。
学生の間でなければできない、破天荒な旅に行ってきてほしい。
損得を全く考えない、純粋な恋愛でボロボロに傷ついてほしい。

若者たちは、そんな非生産的な無駄な行為の中で、何かを見つけます。
その何かは、すぐには正体はわかりません。
でも、大いなる無駄の中で、ある意味、特権的な精神体験をしてほしいと思うのです。

今の学生たちにそのようなぜいたくは、許されていないようです。


また話が変わりまして、
昨年のスケジュール帖を見ていますと、僕の飲酒行動が問題化していくことが、
ちょっとした走り書きで残されていました。
例えばある日付には

「コワレタラアカン」

という殴り書きがあります。

おそらく、その日は朝から飲酒してしまったのでしょう。

正確な記録ではありませんが、例えば僕の人生が終わったのちに僕のメモを見た人が、
アル症の進行過程の記録になりえるものとして見た時、こんな殴り書きでも、のちの人びとの参考になるかもしれません。
記録を正確にとどめておくという行為は、義務化してしまうと、かなりの負担になり、行動と記録の本末転倒を引き起こしかねません。
でも、ちょっとした落書きでも、後から意味を持つ場合もありそうです。
ホンで、ドナイヤねん、と突っ込まれたらそれまでですが、
全くの無駄ではなさそうやんか、位は答えられそうです。


全くつながりのない話に終始しました。
たまにはこんな内容もお許しください。

皆さんも僕も、今日もご機嫌さんで
LWOA Life Without Alcohol 断酒ライフ、継続しましょう。