僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

世界を狭めていたのかも

ほんまに押し詰まりました、ほんまにアル症で肝硬変、でもほんまに見た目元気です、リスボン、58歳。

本日もリスボンの、きままわがまま・ノープラン・ブログ、ご訪問、ありがとうございます。


我が家は、年末年始に特別なことはほとんどありません。

こどもたちが小かった頃は、
年末になると家族で家内の実家にお邪魔し、
ほんまに押し詰まると僕だけ僕の実家に移動するという、
ある意味での非日常感を伴った特別な時間の流れがありました。
(僕だけ移動したのは、僕の実家の年始の行事ゆえです。)

今年に関して言えば、

パートナーは1日以外はパート勤務、
長女はバイトの関係で下宿先、
長男も31日と三が日以外は、サッカーの練習

ということで、僕だけが公式のスケジュールがありません。

でも、1本、論文を書く予定で、現在、資料の下読みを行っています。


皆さんも、かつて飲酒生活者であった時の年末年始の過ごし方について語ってらっしゃますが、
だいたい、呑んだくれた年末年始だったようですね。

普段は白眼視される昼呑み、朝呑みが大っぴらに許される時期、それがお正月だった、という方も多いでしょう。

僕は正月だからといって特に飲んでいたわけではありませんが、
昨年の1日は、間違いなくアル症者としての標準的な行動を取っていたように思います。

すでに末期肝硬変の為、腹水が溜まってお腹はまんまる、
食欲はほとんどなく、体を動かすことは好きだったので歩くのですが、そのスピードの遅かったこと。
僕自身はそのつもりはありませんでしたが、
客観的に見れば3週間後に入院する男の様子であり、行動であったと思います。

ほとんどの行動が飲酒と関連付けられていました。
いつ、どこで何を買って、どのくらい飲むか、家での本呑みはいつから始めるか、
常に頭の中は、アルコール・スケジュール帳によって支配されていました。

そんな僕の頭の中は、そして当然ながら、その頭によって制御されていた僕の行動は、
極めて限定的でした。
僕は、僕の心と体を自らの手で、むちゃくちゃ狭っ苦しいところに押し込めていたんですね。

前にも少し書きましたが、アルコールの手配が困難であることが予想される地への移動は、
最初からNGでした。
昼間から飲む飲まないは別として、
アルコールへのアクセスが担保されていないと、一切の行動が始められませんでした。

そう考えると、アル症の酒飲みって、つまんない連中ですよね、
なんぼ、酒は文化だと言っても。

断酒は狭い檻からの自発的脱獄です。
僕たちは自由を手にするのです。

そんな自由のために皆さんも僕も、今日も明日も、厚かましくも謙虚にかつご機嫌さんで
LWOA Life Without Alcohol 断酒ライフ、継続していきましょう。