飲酒歴40年、断酒歴3年と5か月、不良初期高齢者、リスボン、60歳。
本日もリスボンの、今日もまじめかも・ノープランブログ、ご訪問ありがとうございます。
タイトル、少しばかり堅苦しくなってしまいました。
まるで学術論文か、文部科学省あての報告文のようなタイトルです。
何でこんな堅苦しいことについて考えたのかといえば、
もちろん、そんな堅苦しいことについて考えるのが僕の仕事の一部だからなのですが、
ちょうど今しがた、
学内での教員対象の研修会に出席してきたばかりだからでもあります。
今日の研修会ですが、
大学の教育成果を視覚化するための一つの方法としての、
教育成果アセスメントについての外部業者による説明会でした。
別の言い方をすると、
大学で学んだ若者たちがどんな風に成長したのかについて、
客観的に評価するシステムについての営業トークです。
大学という教育機関は、長いこと、
教員の個人芸にすべてをゆだねる、
そして大学の教員は、学術研究に従事することでそのような個人芸を体得している、
というほとんど検証不可能な前提で教育を行ってきました。
しかし30年ほど前から、
教員の個人芸ではなく、大学として組織的に教育改善に取り組むべきであるということで、
いわゆるFD、ファカルティー・デベロップメント活動ということが積極的に言われるようになりました。
今日の研修もその延長にあります。
FDの考え方そのものについては、僕も反対ではありません。
研究はできてもその成果を教育に反映できない大学教員は、
ダメな先生だと思います。
もちろん、その必要条件としての研究活動にしっかり取り組んでいるということが、
絶対の大前提になります。
僕の勤務している大学には、この前提に背く、反社会的なYという教師がいます。
今日の研修中、実は僕は途中、一時的に意識が宇宙に行ってしまいました。
実に気持ちよく寝てしまいました。
ですので、研修内容をちゃんとは理解していないので、
文句を言う資格はないのですが・・・
一つ、どうしても気になったのが、
学生の成長成果を客観的に視覚化するという方法論です。
つまり、この能力は伸びたよねということが、誰でもわかるようにしようということなのですが、
どうにもこの考え方が腑に落ちません。
というのも、
大学で身に着けることのできる力って、
在学中に客観的に視覚化できるようなものですかね、
という疑問が、どうしてもぬぐい切れないからです。
客観的な判断を可能にするためには、
アセスメント、即ち評価、あるいは成績付けを明文化する必要がありますが、
アセスメントが明文化されることによって、
教育目標や指針が平準化され、
その結果として、
望ましいものと思われる多様な成長が否定されてしまうのではないかと思うのです。
大学の本来の目的とは何か、
単なる、職業社会人の育成だけにはとどまらないのではないか。
そう考えてみると、
教育成果の客観的なアセスメントは、
本来、大学教育改革にはなじまないのではないか、
さらには、
社会ののびのびとした発展の芽を摘んでしまうのではないか、
そこまで恐れてしまいます。
社会が効率的な発展を目指すこと、
そしてその発展に貢献できる人材を育成すること。
一見すると正しいことのようにも見えますが、
裏を返すと、
効率的な社会発展こそがすべてに優先する。
それに貢献できる人材が望ましい、
そこに貢献できない人材は、問題であると考える、
とても危険な主張にもつながるような気がします。
僕がこのようなことを感じるのは、
障害学という専門分野に従事しているからですが、
同時に、アル症者になってしまったという個人的な経験も関係していると思います。
多様性を尊ぶ、
言うは易し、ですが、案外、行うは難し。
僕たち、精神疾病者にも主張すべきことはまだまだありそうです。
皆さんも僕も、今日も明日も、厚かましくも謙虚にかつご機嫌さんで
LWoA Life Without Alcohol 断酒ライフ、継続していきましょう。