僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

三回忌

飲酒歴40年、断酒歴3年と10か月、不良初期高齢者、リスボン、61歳。

本日もリスボンの、不敬の極み?ノープランブログ、ご訪問ありがとうございます。

 

奇妙な一日でした。

 

まず朝一でピアノの練習。

午前中は授業と会議、

ま、これは僕たちの業界ではごく普通のスケジュールです。

 

昼から一昨年の12月に孤独死した弟の三回忌の法要。

お寺の本堂での法要だけ参列して、すぐに職場にとんぼ返りし、

ピアノの練習。

というのも夜はいつものライブハウスで、

ジャムセッションのホストを務めることになっていたからです。

 

弟の三回忌の法要とジャムセッションのホスト、

もちろん、同じ日にブッキングしてはいけないことはないのですが、

もしかすると目くじらを立てる人がいるのかも。

 

弟の三回忌の法要に参列したのは、

親父と僕とパートナーの3人だけ。

東京での一人暮らしの中で死んでいったあいつには相応しいのかもしれません。

 

3人の参列者にとっては広すぎる本堂に響く僧侶の読経。

ただし彼の声は、ピンマイクを通してスピーカーから拡声されています。

10年前に亡くなった母親の時も含めてこの僧侶には法要をお世話になっています。

当然といえば当然なのでしょうが、

いつも同じ回向文や読経、そして御詠歌で淡々と法要が取り行われていきます。

一体、死者を送るとはどういうことなのでしょうか。

死者を送るという本性の検証のしようのない儀式を取り行う専門職としての僧侶。

そしてその僧侶にいくばくかの対価?を支払うこと。

一体だれのため、何のためなのでしょうか。

 

僕は特定の信仰をもちませんが、

あえて言えば東アジア人としての自然な感性に基づき、

仏教に一番、親和性を感じています。

でも今日、弟の三回忌の法要に参列しながら、

何のために、よう分からん僧による、よう分からん一連の儀式的行為に同席しなければならないのか、ずーっと問い続けていました。

 

形式的なけじめとしての宗教行事。

誰のため、恐らくは依頼者の自己満足のため。

 

形式仏教の社会的意義を疑いながら、座っていました。

 

皆さんも僕も、今日も明日も、厚かましくも謙虚にかつご機嫌さんで

LWoA Life Without Alcohol 断酒ライフ、継続していきましょう。