飲酒歴40年、断酒歴6年と6か月、不良初期高齢者、リスボン、レベル63。
本日もリスボンの、実は深刻・ノープランブログ、ご訪問ありがとうございます。
本日、2008年に秋葉原で起きた、無差別殺傷事件の被告、
加藤智大死刑囚に対する死刑が執行されたそうです。
この死刑制度というやつも、
この国が世界標準からずれている案件の一つですが、
僕は死刑制度そのものについては、
残酷な制度だなと思いながらも、
被害者、特に殺人事件の被害者や関係者の心情を考えると、
頭ごなしに否定することもできません。
ただこの国の検察や警察が時々、犯してしまう、冤罪という事態を考えると、
慎重にも慎重な運用が必要だろうなと思います。
加藤死刑囚の場合、
本人の生育環境等の考慮すべき事情はあったとしても、
まったくの無差別殺傷事件であり、
殺されてしまった被害者の想像を絶する無念さや、
傷害の被害者の事件後の苦しみを考えると、
死刑判決にも一定の理があると思います。
加藤死刑囚は、インターネット上の書き込みが無視されたり、
他人の悪意によるなりすましのためにネット上の人格が棄損されたことに憤りを感じて、
犯行に及んだといっているようです。
もちろん、この供述にも、残念ながら同情の余地はあまりありません。
しかし、テキストベースの仮想空間上でのやり取りが、
一人の人物を凶悪な蛮行に追い込んでしまった可能性については、
すんなりとは受け入れがたい、ひっかかりというか、痛痒を感じます。
加藤死刑囚が犯行に及んだ2008年のころは、
まだ現在ほどには、SNS も普及していなかったように記憶しています。
もちろんすでにそのころ、PC や携帯電話によるやり取りは、
かつてのようなある種のエリート層だけに許された特権的な行動ではなくっていました。
したがって、加藤死刑囚を追い込んだ悪意なき悪意は、
すでに正体の見えにくい、時限爆弾になっていた可能性はあります。
いつのころからか、SNS 上でのやり取りに異常なまでに見栄を張る人たちが増えてきました。
そして SNS 上で「映える」ことを何よりも重視する人が現れ始めました。
僕たちも、他人の SNS 上での華やかな報告に妙な劣等感を感じることも増えてきました。
加藤死刑囚が感じた、ねじれた怒りや、孤独感には、もちろん、同情できません。
しかし僕たちも、かなり低いレベルではあると思いますが、
妙な乗り遅れ感に、内心、勝手に苦しむこともあります。
考えてみればおかしな話です。
SNS は対面では実現しにくいコミュニケーション空間を可能にしたはずです。
でもその空間で僕たちは、
時に疎外感に追い込まれ、孤独感を高めていってしまうことがあるのです。
当たり前の心構えを確認するにとどまりそうですが、
やはり「○○とはさみは使いよう」ということなんでしょうね、大事なことの一つは。
僕はいろいろな理由でどうしてもスマホに依存できないのですが、
スマホに依存してしまっている多くの人びとは、
便利さを手中にしているようで、
心の中に不用意にも孤独感の種をまいているのかもしれませんよ。
原始人の方が心が豊かなんです、ホンマは。
断酒ライフでギャートルズ・スピリットを守り続けます、ハイ。