僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

帰属意識と飲酒

飲酒歴40年、断酒歴6年と9カ月、不良初期高齢者、リスボン、レベル63。

本日もリスボンの、飲酒文化の貢献?を疑ってみる・ノープランブログ、ご訪問ありがとうございます。

 

人にはもって生まれた性格というか人格のようなものはあるのでしょうか。

人格のようなものが後天的な経験によって培われるものなのか、

それとも生まれながらに DNA の中に書き込まれた情報によって制限を受けるものなのか、

人生の半分は過ぎたと思う今でも、よくわかりません。

 

常に告白していますように、僕は集団行動があまり得意ではありません。

誰かリーダーのような人に判断を預けるのもいやですし、

だらだらと議論を重ねるのも好きではありません。

僕自身の中に、ナルシスト的自己チュウの要素がでかい顔をして居座っていることは自覚しています。

まともな社会人としては、

そんな自己チュウ意識にでかい顔をさせてはいけないということも、

理性的には?わかっているつもりです。

でも僕は、集団行動のメリットを知りながらも、一人で判断し、行動することを選びがちです。

 

飲酒行動の効能の一つに、集団への帰属意識を高めることがあげられるでしょう。

今は少し控えられていますが、新人を歓迎する飲酒の会は様ざまな組織で行われます。

食事を共にし、飲酒によってもたらされる心のストリップの共犯状態を経験することによって、

人びとは仲間意識を高めることができるという錯覚に陥るようです。

 

逆説的に響くかもしれませんが、

若いころからの僕の過剰飲酒は、

共犯的飲酒行動が要求する、帰属意識の強制に対する抵抗に基づいていた可能性があります。

組織としての飲酒行為の、ホンマに飲酒の部分だけを尊重し、

想定される精神的な効能への共感要請に対しては、同調できなかったような記憶があります。

ともに杯を傾けあった仲という言い方に、欺瞞のようなものを感じていたのかもしれません。

 

断酒者となった今、組織への帰属意識の強制についても、

冷静かつ批判的に考えることができるようになりました。

もっと若くて脳みそがキレッキレのころに断酒ライフに入門できていたら、

ちょっとした哲学者になれたかもしれません。(嘘です)

 

せっかくですので、酒は飲みませんが、

飲酒の文化的な意味、そして社会的な意味についても、考えていきたいと思います。