僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

依存症という術語についての覚書

飲酒歴40年、断酒歴7年と7カ月、不良初期高齢者、リスボン、レベル64。

本日もリスボンの、今日はブログというよりも覚書・ノープランブログ、

ご訪問ありがとうございます。

 

今日はお気楽ブログではなく、ちょっとばかり堅苦しい、覚書です。

 

「僕たちはアルコール依存症当事者ではなく、アルコール使用障害当事者である。」

 

今日の僕の主張を一文でまとめると、こうなります。

 

アルコール依存症という言葉が市民権を確立したことにより、

かつてよく用いられていたアルコール中毒患者、いわゆる「アル中」という概念は、

ほぼ、死語になりました。

今、アルコール中毒という概念が用いられるとすれば、

急性アルコール中毒のような、緊急性の極め高い、病的状態について語る時だけでしょう。

 

アルコール依存症は、アル中よりは、差別的な印象は弱まっているかもしれません。

 

しかし僕はこの言葉が、

僕たちが受け入れざるを得ない心身の情態を表す、

最適な言葉だとは思っていません。

根拠はきわめて簡潔です。

 

僕たちはアルコールを体内に摂取しない限り、

アルコールに依存することはないからです。

少なくとも、今の僕はそうです。

 

今の僕は、アルコール飲料の飲料としてのプラスの部分について、全否定するつもりはありません。

 

例えば、泡の立つあの飲料が、今の季節、最高のごちそうの一部であることは知っています。

 

あるいは、アルコール飲料が、ある種の集いにおいて潤滑油のような役割を果たすことも否定しません。

 

ですが、今の僕は、アルコール飲料を必要とはしていません。

アルコール飲料に依存する場面もありません。

 

かつての僕たちは、アルコール飲料に依存していました。

特に飲酒者としての最終段階?に至っては、

一日のどのような時間帯であれ、

どのようなシチュエーションであれ、

酒が飲みたいと、ちらっとでも思えば、

かなりのアルコール濃度の酒を、くいっと飲み干していました。

目覚めの瞬間にそう思えば、そうしました。

自動車の運転中でも、そう思えば、そうしました。

一目をはばかる必要がある場合は、奇跡的な素早さで隠れ飲みをしました。

 

そう、かつての僕は、24時間、アルコールに支配され、アルコールに依存していました。

 

しかし今の僕は、そうではありません。

ビールが美味しそうだなと思うことはありますが、

ビールを買うことはありません。

回数は激減しましたが、

会食の場で、純粋な炭酸飲料で食事や会話を楽しむことができます。

 

今の僕は、アルコール飲料に支配されていませんし、依存もしていません。

 

ただし、僕は幸いにもまだ経験してはいませんが、

そして一生、経験しないことを命がけで目指しますが、

僕たちは、少しでもアルコール飲料を体内に摂取した場合、

アルコールに支配され、アルコールに依存してしまう、化け物に変身してしまいます。

 

つまり僕たちの心身は、アルコール依存症にすぐに移行してしまう状態にあります。

一回の使用が、依存という異常な状態を引き起こしてしまうのです。

 

僕は、僕たちのこの、常に依存状態へのがけっぷちにいながら、持ちこたえている状態について、

依存症という名前で括ってほしくはないと思っています。

その意味で、アルコール使用障害という、発声上の経済効率のあまりよくない概念を用います。

 

当事者以外にとっては、どっちも一緒やんけ、という話かもしれません。

でも僕は、依存症という概念と、使用障害という概念の違いについては、

声を大にしてこだわっていきたいと思っています。

僕たちは、依存状態という発作状態に簡単に移行できる、危険な心身条件をゲットしてしまいました。

でも、発作状態に至らない限り、僕たちは、元気です。

僕たちは僕たちの元気を、もっと主張していいと思います。

 

僕は誰よりも元気に、そして幸せに、長生きしてやります、

世間の皆さんの恨みを買うほどに。