飲酒歴40年、断酒歴2年と少し、現在の職場歴25年、リスボン、59歳。
僕はずーっと現在完了形で生きてきたつもりでした。
つまり、常に今は過去になるんですが、
その過去は次の現在と全く切れてしまうことはなく、
常に連続性の中にあって、
僕の人生は、
現在進行形と現在完了形のリンクでできていると思っていました。
その過去は次の現在と全く切れてしまうことはなく、
常に連続性の中にあって、
僕の人生は、
現在進行形と現在完了形のリンクでできていると思っていました。
しかしある時期から僕の人生の振り返りの認識の中に、
過去形が存在するようになってきました。
過去形が存在するようになってきました。
つまり、現在の在り方には直接つながらない、
あるいはつながり方を探るのがとてもめんどくさい時代が存在するようになってきたのです。
あるいはつながり方を探るのがとてもめんどくさい時代が存在するようになってきたのです。
今の僕にとっては、
飲酒者であった頃の記憶は、
全部ではないけれども、
現在完了形から過去形に移行しつつあります。
飲酒者であった頃の記憶は、
全部ではないけれども、
現在完了形から過去形に移行しつつあります。
でも昨日と今日の行動の中で、
僕の振り返り認識の中にさらに大物の時制感覚が存在していることを思い知らされました。
僕の振り返り認識の中にさらに大物の時制感覚が存在していることを思い知らされました。
それは、過去完了という時間認識です。
ある昔の出来事で、現在の事象とは全くつながらない、
しかもそれだけではなく、
普段、認識できる過去の事態にもつながらない、
普段、認識できる過去の事態にもつながらない、
現在につながっているはずの過去からも切断されてしまった、
過去にとっての過去とでもいうべき時間感覚が現れたのです。
過去にとっての過去とでもいうべき時間感覚が現れたのです。
フランス語の文法でいう、大過去というやつに一番近いかもしれません。
特に今日訪れた場所から呼び覚まされた過去は、
僕にとって大事な思い出のはずだったのに、
ここ、10年近く、僕の認識の表面に現れてくることはありませんでした。
僕にとって大事な思い出のはずだったのに、
ここ、10年近く、僕の認識の表面に現れてくることはありませんでした。
分かりにくいと思いますので、少しだけ具体的な話をします。
僕の勤めている大学のある専攻の3年生たちが、
自主的に進級制作展を行っていたのですが、
その会場は、20年近く前に卒業制作展を行っていた場所でした。
自主的に進級制作展を行っていたのですが、
その会場は、20年近く前に卒業制作展を行っていた場所でした。
ある年の4年生二人組が、その建物の2階のテラスで、今でいう、パフォーマンスという形での表現を行いました。
一人の学生が自作の詩を朗読し、
もう一人の舞踏も勉強していた学生が半即興の舞踊でコラボレーションするという表現です。
もう一人の舞踏も勉強していた学生が半即興の舞踊でコラボレーションするという表現です。
僕はミュージシャンですが、
ミュージシャンであればこそ、安易に音楽の力を借りなかった、ある意味で潔い彼女たちの表現に共感できました。
ミュージシャンであればこそ、安易に音楽の力を借りなかった、ある意味で潔い彼女たちの表現に共感できました。
僕にとって彼女たちの卒業制作の作品は、同志による実験的な勇気のある試みだったのです。
今日、その同志たちがかつて、勇敢な実験を行った場所に行きました。
でもその時まで、いろいろな事実が僕の頭の中で全くつながらなかったのです。
ただ単に忘れっぽくなったといって済ませてよいものかどうか、
僕にはわかりません。
僕にはわかりません。
ボケボケのアーカイブ検索機能を少しでも回復させるためにも