僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

またまた同志との出会い

飲酒歴40年、断酒歴7年と6カ月、不良初期高齢者、リスボン、レベル64。

本日もリスボンの、年の功が生み出すジャンプ力・ノープランブログ、ご訪問ありがとうございます。

 

今日、7月20日は、ここのところ続いていた猛暑がやや陰りを見せ、

暑いながらも多少は過ごしやすい日でした。

毎週木曜日は、

1講時目にかなり突っ込んだ内容の講義を行い、

昼からの3講時目に、ほとんど小学校レベルの英語の授業を行うという、

教師という職業的な専門性からも、そして研究者という職業的な専門性から言っても、

多様かつ充実したスケジュールを送っています。

 

3時半には3講時目の授業の後片付けも終わり、

学内で開催されている学生の個展を見てから帰宅しようと思い立ち、会場に向かいました。

最初はさっと観て、帰るつもりだったのですが、

結局、1時間以上、長居をしてしまいました。

 

少しばかり、風変わりな展覧会でした。

 

 

作品は一応、絵画という括りにまとめることができますが、

殆どの作品が額装されておらず、

荒々しいタッチで色を施されたキャンヴァス地が壁面に直に固定されています。

会場の中心にプロジェクターが吊るされ、

一つの壁面に、連続するヌードクロッキーのアニメーションが投影されているため、

会場全体がやや暗い。

そしてスマホ音源から、アンビエント風のピアノの小曲が繰り返し再生されていました。

 

そして一番、変わっていたのは、

ヌードクロッキーが投影されている壁面に、

無地のキャンバス地が固定され、

作者自身がそこで制作を展開していたことでした。

 

正直に言えば、展示されている絵画?の多くは、完成度や展示方法に?マークがつきそうな感じですし、

作者による公開制作?も、制作の現場を見てもらいたいという風ではありませんでした。

 

描かれている絵画の内容も、よく言えば独創的、

悪く言えば自己中心的な閉鎖性に支配された、

メッセージ性を放棄したかのような画面でした。

 

僕は、しかしこの、少しばかり奇妙な展示空間兼制作空間に惹きこまれてしまいました。

黙々と作業を続ける作者の横で僕も、じっとしながらも、時々目を泳がせながら、

1人で心の対話を続けながら、この空間での滞在を楽しみました。

 

そして意を決して、作者の彼女に話しかけてみました。

洋画を専攻する4年生の彼女について、僕は個人的には全く知りませんでした。

もちろん彼女の方は、僕が教師の一人であることを知っていますし、

僕の授業も履修したことがあります。

ですが、僕は、初めて作品にふれたアーティストに対して語り掛けるようにして、

彼女にいくつかの質問をしました。

 

アーティストにとって鑑賞者から話しかけられることは、

基本的にはうれしいことであり、ほとんどの作家は鑑賞者からのストレートな言葉を待っています。

 

僕の即興的なインタビューは、お互いに気もちが盛り上がり、

結果として1時間近く、話し込んでしまいました。

 

その中で、彼女が公開制作を行っていた理由も少しづつ、分かってきました。

このアーティストは、何か表現したいもの、何か伝えたいテーマがあるから絵を描いているのではなく、

絵を描くという行為そのものが彼女のとって生きる意味の大きな位置を占めているというのです。

今回は、いわば授業の一環として個展という形式をとっての作品公開ですが、

彼女にとっては、作品を完成させ、それを観てもらうことよりも、

言葉に変換しがたい内的な必然性に従って絵を描くことに意味があり、

たまたま公開制作という形をとったに過ぎなかったらしい。

 

僕はこの彼女とのやり取りを通じて、

僕が音楽に生きることの意味を託していることと通底する部分を感じました。

作品のテイストも制作のテーマ性もほとんど共有できない、

この若いアーティストの展示空間に僕が惹かれてしまった理由は、

どうやら、このあたりの共感意識にあったようです。

 

彼女の制作にかける思いを聞いてから僕の感想を伝えたところ、

彼女も僕の感じ方に共感してくれたようです。

思わぬところで、予期せぬ同志に出会ったような感じでした。

40歳以上の歳の差がありますが、

芸術と常にかかわり続けてきた僕の経験値が、

このジェネレーション・ギャップを跳び越えるジャンプ力を僕にもたらしてくれたようです。

つくづく、果報者だと思います、我ながら。

2度目のチャンスをくださった神様に感謝いたします。

もちろん、世界中の断酒同志にも感謝です。