僕のワンノートサンバ

断酒ライフを送る元大学教師にしてジャズ・ピアニスト、ヴォーカリスト

プロになりたての頃を少し思い出す

飲酒歴40年、断酒歴7年と8カ月、不良初期高齢者、リスボン、レベル64。

本日もリスボンの、ちょっと思い出話?ノープラン・ブログ、ご訪問ありがとうございます。

 

僕はおそらく20代の頃には、問題飲酒習慣が身についていたと思います。

いくつかの要因が考えられますが、

22歳の頃から始めた、プロ・ピアニスト稼業も、その中の一つになりました。

 

大学4年生の冬ですが、

親父が失職しました。

僕はすでに計画留年を決めていましたし、大学院に進学することも決めていましたので、

何としても大学生を続ける必要がありました。

そこで考えたのが、できる限り時間効率の良いアルバイトで、

生活費と学費を捻出することでした。

 

幸いになことに僕が大学生だったころの国立大学の学費は、思い切り安かったし、

また保護者が定期的な収入を失ったということで、

授業料免除の手続きもスムーズに進みました。

 

それでもできる限り効率的な仕事を探そうということで、僕が考えたのが、

夜の盛り場ピアニストという選択でした。

時代はバブルの少し手前、

まだ高度経済成長の残り火が十分にあった頃でしたので、

ピアニストが常駐するようなラウンジが大阪や京都にはありました。

そして僕は、高槻市のとあるナイトラウンジで、

週3回から4回、ピアノを弾くことで、生活費を稼ぐようになりました。

 

店では、BGM の演奏、ならびに、お客さんの歌伴奏を担当しました。

この店で、演歌や歌謡曲の演奏法を自分なりの方法論で徹底的に身につけました。

 

そして同時に、お客さんに席に呼ばれた際には、

お客さんのお酒を頂戴しながら接客するということも学びました。

お客さんのお酒を適度に?いただく、

このことが店の売り上げにつながるということもあり、

僕の少しばかり度の越した酒好きは、恐らく経営者からは好感されたものと思います。

 

最初に勤めた高槻の店には、普通のビジネスマンや、ブルーカラーのお客さんも多かったのですが、

ごく少数ですが、背中に華麗なイラストが描いてあることが想像される、

特殊な職種のお客さんもいらっしゃいました。

 

「先生、なかなか飲める口やんか、気に入ったわ」とおだてられながら、

ヘネシーの水割りをぐびぐびと飲んでいたことを思い出します。

ちなみにお水業界でミュージシャンは、先生と呼ばれます。

 

僕の風変わりな人生は、こんな風に始まりました。

この時の経験が後のアルコール使用障害の発症のきっかけであったことは間違いありませんが、

社会の多様なあり方を知る、いい経験になったことも確かなことです。